清原惟『わたしたちの家』(2017)感想

PFFアワードグランプリを受賞した『わたしたちの家』。PFFアワードで記憶に新しいのは昨年準グランプリを受賞した『花に嵐』(岩切一空)。さえない「僕」(監督である岩切自身が演じている)が、大学の映画サークルに入り借用したいわくつきのビデオカメラで日常を記録しているうちにある女性に出会い、サークルで撮影された映画を巡って摩訶不思議な体験をする映画だ。「僕」の青春的なモノを生々しく描いたきわめて「個人的」な作品であった。*1良くも悪くも監督の自意識を垣間見るあくの強い作風の為、鑑賞者の好き/嫌いがハッキリ出てくる作品でもある。それに対して『わたしたちの家』は、ひとつ屋根の下に暮らす母娘(桐子とセリ)と、ひょんなことから出会う透子とサナが暮らす風景を記録する。記憶喪失、並行世界(または時間軸のねじれ)、地下活動、ミステリ要素といった漠然とした状況が見られるが、それらの物語は回収されることはなく設定や状況説明をほとんど行わない。ある種のドキュメンタリーのような『花に嵐』とは対極の作品である。

『花に嵐』も素晴らしかったが、『わたしたちの家』には心底感動させられた。空間や関係性といったものが切断/接続されるだけでここまで面白くなるのかと。この作品には上記のように様々な映画要素が含まれているが、明確に説明されずに不確かなこととして存在する。確かなことは母娘の家族と、透子・サナの2人組がひとつの家で生活しているといった事実だけだ。この2つのグループは、ひとつの家をシェアハウスとして活用しているわけではなく、並行世界もしくは時間軸の違った「同じ家」で生活している。このように書くとSFのような映画に聞こえるが、確固たる設定とデザインのようなものは存在せず、謎は謎のままに映画は進んでいく。ある日、透子が家に招くサナがなぜ記憶喪失なのかは語られないし、地下活動をしている透子が実際に何をしているかも語られない。*2それと桐子とセリの2人にしても、父親の存在が示唆されるが、父親はどうなってしまったのかは語らないのだ。私たちは最低限の情報から与えられておらず、情報が遮断されている。

同じ家で同じカットで進行されるため、2グループの住む家は同じ家として認知させられるが、もしかしたら別の場所でのことなのかもしれないし、似たような家で同じようなショットを反復させることで同じだと思わせているだけなのかもしれない。しかし、この映画ではその場所が同一空間であることを決定的なショットと、カットとカットの繋ぎによって証明する。映画においてカットが変わるということは、空間と時間を飛び越えることだ。カットを接続することで映画は空間と時間を生み出し、人の感情を揺さぶる情動をも生んでしまうことを清原惟は自覚しているだろう。

空間と空間が繋がっていると意識させること。たとえば、誰もいないのにオフからガラガラと扉を開ける音してくる。まるで幽霊映画のように。それと障子の穴。セリが夜な夜な何かに気づき障子に穴を開け、向こう側を見てみる。並行世界(と思っている)の向こう側では、障子の穴に気づいたサナが向こう側を見る。こういったように「向こう側」へ意識させる。映画の冒頭あたりでセリが同級生と海でやり取りするシーンも場所が重要であり、「向こう側」への意識を示唆させる。*3それは「父の不在」により、セリが「向こう側」を意識するように、彼女が空間を超える存在として仕立て上げようとする。こうして空間を超える準備を整える。また、扉を開閉する音と同じように、母親がセリを捜索するシーンはサナが聞く音「パトカーの音」で2つのカットが繋がっている。

さて、深夜のガラクタあさりや商店街の歩行など素晴らしいシーンは目白押しだが、最後に空間と空間を接続する証明のシーン。透子とサナが住む家に、サナが喫茶店で知り合った男が訪ねてくる。この男のことを透子に対して何も言っていなかったためサナは責められるが、逆に透子に地下活動のことで反撃され口論になってしまう。そして突然停電すると、男はどこかに消えてしまう。探しに2階に向かうと、家出から帰ってきたセリのカットに切り替わり、不穏な音を聞き彼女もまた2階に呼び寄せられる。サナたちが2階に行くと男は何かを物色しているようだった。「動くな!」とじわりじわり間を詰めるサナたち。そしてセリもまた母親の彼氏からプレゼントされた花瓶を持ち、目に見えない何かを追い詰めようとする。この一連のシークエンスで素晴らしいのは、互いに切り返しショットのように回りこみ、カメラワークによって同一空間を表現していることだ。サナたちが追い詰めた先で、何かの気配を感じたセリは花瓶を投げる。廊下の向こう側から花瓶が飛んできてその拍子に転んでしまう男。花瓶に入っていた花を手にした彼はサナへその花をプレゼントする。こうしたカットとカットの接続によって――2つの場所は同一空間であることを証明される。また、サナが向こうの世界から花をプレゼントされたように、サナが持っていたプレゼントもまた空間を超えセリへプレゼントされる。それを持ち『“わたしたち”の家』といったタイトルが証明されるのである。

映画を構成する最低限の切断/接続だけでここまで映画を強固にすることができることに驚愕した。藝大関連では、瀬田なつき『彼方からの手紙』(2008)以来のヒット。PFF関連ということで青山シアターで鑑賞したが、おそらく来年の藝大卒制にも収録されるであろうからまた見直したいものだ。

DVD 東京藝術大学大学院映像研究科第二期生修了制作作品集2008 (<DVD>)

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ドッペルゲンガー [DVD]

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*1:映画の表現方式は白石晃司を筆頭とする心霊ビデオ×POVであり、方法論としても「個人的な」ものは表現しやすい。

*2:毎日同じ料理を食べていることや、水道水について極端な反応を示すこと。また、仲間とする会話で匂わせる何かは捉えられるが、「何を」までは語られることはない。

*3:接続には必ず切断が伴う。例えば古典映画の『山椒大夫』(溝口健二、1954)でも、それを模範したゴダールの『気狂いピエロ』(1965)においても映画の終わりには海がつきまとう。北野武の『あの夏、いちばん静かな海。』(1991)においても最新作『アウトレイジ 最終章』でも海が死する場所として模範していく。黒沢清の『勝手にしやがれ!!』シリーズでは、海を越えるため船に乗ろうとするが邪魔が入る。『ドッペルゲンガー』(2003)においても崖っぷちが映画の最後を飾る。『大人は判ってくれない』(1959)で少年が海を前にしたように。クリスマスツリーを持った少女は海を前にして戻ることになる。『花に嵐』もそうであるが、映画の最後(じゃなくてもいいが)で海を前にするということは、それまで走り抜けてきたものが海によって運動が消失することなのではないだろうか。海(波)による逆向きの運動。こうした海による運動の消失によって、より一層に向こう側――つまりカットとカットが接続する可能性が示唆される。こう書いてみると母娘のジャンケンにおいての切断ですらそんな風な示唆に見える。