後にも先にも忘れ去られそうな映画とは――『名探偵コナン ゼロの執行人』と『パシフィック・リム アップライジング』

先に断っておくが「後にも先にも忘れ去られそうな映画」とは別にこれから対象にする映画についての悪口で書いているわけではない。では何なのか? といったことは置いておいて先に後世に残りそうな映画とは何なのか? 例えば名作といわれる映画。ジョン・フォードの『駅馬車』(1939)、ハワード・ホークスの『リオ・ブラボー』(1959)などの西部劇。それともF・W・ムルナウの『サンライズ』(1927)やグリフィスの時代までさかのぼるの――あまりにも名作の対象が多すぎてあげたらきりがないのは承知の事実だ。対して歴史から忘れ去られた映画もあるだろう…(※この辺りは蓮実重彦が批評家として行ってきたことを振り返ってみればいい)と、続けても長くなるだけなのだが世の中には金をかけて映画を作り派手な広告を打ってもフワフワと宙に浮いてしまい人の記憶に残らない映画も数多く存在する。

名探偵コナン ゼロの執行人』は国際サミットを控えた東京の会場がテロに合うといった事件から幕を開ける。おそらくパソコンなんてエロサイトの検索しかしなそうな毛利小五郎がテロの犯人として浮上する。見つかったのは会場のドアに焼き付いた指紋だった。会場の誰もが犯人ではないと思うだろう。誰かにハメられたのだと。物語は観客を一切裏切らず、いつも通りに展開し、コナン君のいわゆる「トンデモ」アクションに身をゆだねるのである。IoTといったトレンドワードを使用しながらも、気がつけば「正義とは何なのか?」といった普遍的テーマに落ち着いているのがまさにヒーロー映画たる安定感を持続させるのであろう。でなければ22作も映画なんて作れるわけがない。「数撃てば当たる」といった言葉や森山大道の「量」といった言葉が思い浮かぶ。

例えばコナンで名作といわれる『時計じかけの摩天楼』や『ベイカー街の幽霊』といった作品と比べ本作が優れているか? と聞かれたらそうではないのであるが、22作という圧倒的な量に対して悪くないといったところだろう。ただ何年後かに振り返った時にほとんどの人が忘れている映画だと思う。映画で語られることがとても保守的なことが関係しているのだろう。いつ見ても同様のテーマがコナンにはある、といった安心感。極めつけのトンデモなアクション。声優は時代とともに変わってしまっても映画は変わらないのである。

そして『パシフィック・リム アップライジング』。見る前から前作好きだった人から総スカンされているらしいといったことを知り合いから聞いていたのだけど、それもそのはずだと思った。というのもあんまりオタクっぽくないんだこの映画。『パシリム無印』では巨大ロボットが怪獣と戦い世界を救う。仲間との絆。必殺技の存在。何よりもフェティシズムの対象として巨大ロボットが存在していた。特徴を持ったロボットに特徴をもったパイロット。デルトロのバックボーンがそのまま出てきたかのようなオタクな映画だった。しかし本作はそういったフェティシズムをあまり感じられない。確かに自作したスクラッパーという小型のイェーガーが出てきたりするのだが、最初と最後にちょろっと出てくるだけだし、その娘のドラマもたいした演出もされないまま軽薄に終わっていく。

時間の都合上IMAX3Dで見たのだが、映被写体にカメラが近く前景/後景の二つに分けドンパチをダイナミックに見せるといった演出がされる。結局のところこれが視野を狭くしてしまいとても凡庸な作品にとどまる。ようはここでも世にあふれかえった似たり寄ったりの映画を生んでいるということである。スピルバーグ『BFG』のように大小の差異をハッキリと提示してみることはせず、巨大なロボがここにいる!と瞬間的に見せているだけで決して戦いの中でその大小を演出してみせない。

お金をかけて最新鋭の映像技術を使いながらも、これだけの凡庸な映像づくりここまで軽薄なドラマ展開に心が軽くなった。いわばオタク的な「俺らの」といった主張が完全に消え去り、いとも簡単に記憶から抹消されそうなブロックバスタームービーに姿を変えたのがとても清々しい。ジン・ティエンがどんどん美人になっていくように思えるのはどんな魔術がかかっているのだろうか。確かに綺麗だが。

ここで書いたのは人々の記憶に残らなさそうな映画の話である。文句のようなことを書いているが、どうだったかといえば見ている間はそれなりに楽しかった。私は毒にも薬にもならなそうなこの軽さが好きだ。ポップコーンムービーというと語弊があるかもしれないが、家で横になって何も考えず映画を見るということもいいもんじゃないだろうか。といいつつ色々なことを考えてしまうのだが。最後に来年のコナンは怪盗キッドが出てくるとのこと。サイコーなヤツ期待大。