「暴力」に”ふれる”−真利子哲也『ディストラクション・ベイビーズ』感想

人を殴ったり、喧嘩したりってのは道理がある。「暴力」というものは日常と隣り合わせであり、いつ突発的に人を殴ったり、殴られたり、最悪の場合は殺人事件に巻き込まれる…。ある意味「暴力」は起こすというよりも、あるとき自然に”触れて”しまうものなのかもしれない。真利子哲也監督の『ディストラクション・ベイビーズは、「暴力」が執拗に描かれているが、単に「暴力」を娯楽として描くことだけでなく、人に伝染していくことで暴力に対して批評性をもたせた作品だ。オープニングで村上虹郎が岸辺を挟んだ対岸側の兄(柳楽優弥)を認識したとき、すでに彼は人ではなく「暴力」の化身として存在を決定づけられている。彼は決して誰かと会話して怒ったり、喧嘩を売られて暴力を振るうのではない。人間としての感情の揺らぎといったものが全くないのだ。これで人とは言えないだろう。彼は「暴力」そのものとして描かれている。

まず、主軸として「暴力(柳楽優弥)」から影響を与えられる菅田将暉小松菜奈が絡む物語がある。あるとき、菅田将暉は柳楽に友人をボコボコにされ「なんだこのキチガイは?」と、その場で友人を助けることもなく、ただ自分だけ助かろうとする。しかし、柳楽が街のチンピラを一掃してしまうと、柳楽のもつ「暴力」に取り憑かれてしまい「SNSでヒーローになれる」と勘違いする。「暴力」に”ふれて(魅せられて)”しまった菅田は人が変わったように女を殴ってしまう。ただ、暴力にふれてしまっても彼は人間として描かれており、あくまでも自分より弱い人間にしか手を出さないし、ハッタリをかますように大声や暴力的な行動を取るだけなのである。彼は動画をウェブにアップロードして満足しているだけで、それが度を過ぎてしまうと後々気づく典型的なバカとして描かれている。そして、そんな菅田の思いのままにオモチャにされるクソビッチ役の小松奈菜であるが、チャンスを見つけると事故を起こし、瀕死の菅田を車のドアで挟み殺してしまう。警察には猫をかぶったように受け答えをしているが、彼女が暴力を振るうときも菅田から伝染したように大声を上げ文句を言いながら殺すのである。

この2人の物語はあくまでも人間が「暴力(柳楽優弥)」にふれてしまい暴力が伝染してまうといったことを描いている。彼らは柳楽のように人ではない者ではなく、人として暴力を振るう存在である。彼らがいることで客観的に暴力を表現しているだ。また暴力に”ふれる”でいえば、柳楽優弥にボコボコにされるチンピラや一般人たち。いつどこで何かの事件に巻き込まれるかもしれない。柳楽はただ楽しいからやっているだけだ。理由もなくただ暴力に屈する。そういった無差別な暴力に対し客観的な批評性をもたせることで主題を明確に示しているのである。菅田が”ふれた(魅せられた)”ニュアンスは京極夏彦魍魎の匣』の久保竣公の立場だと思うとわかりやすいかもしれない。

そしてもう1つの物語がある。それは弟(村上虹郎)との「兄弟」の物語だ。村の人々は柳楽が失踪してしまっても全く探そうともしない。しかし弟だけは彼を探そうとする。それは彼が柳楽を「暴力」としてではなく人間として扱っているからだ。両親は亡くなってしまい、残ったたった1人の肉親。彼もまた柳楽と関わることで世間からつまみ出されてしまい孤独の道を歩むことになる。果たして彼には暴力性が引き継がれていくのだろうか。全く共感を持たすことのないラストはなかなか良かったと思う。ただ、共同体(祭)の「暴力」と個人のもつ「暴力」を対比させるまでの暗転によるラストまでのつなぎは少し飽き飽きしてしまったし、小松奈菜の演技(主に暴力)には嫌気が差し、徹底的な「暴力」はあれど「エロ」が限りなくない。(菅田のあれは中学生の妄想のような)それに暴力を際立たせるノイズ(劇伴)は要らないのではないか、と感じた。いづれにせよ、なかなか見れない暴力についての映画だったので、わりと満足でしたが。

DVD 東京藝術大学大学院映像研究科第三期生修了作品集2009 (<DVD>)

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