何も変わらなかった空気『ラブ&ポップ』と『アカルイミライ』

『ラブ&ポップ』(庵野秀明/1998/日本)・『アカルイミライ』(黒沢清/2003/日本)


「1999年7か月、空から恐怖の大王が来るだろう」


1999年に恐怖の大王が地球を滅ぼすと予言したノストラダムスの大予言。これ本当に実現したら今こうやって当たり前のようにブログなんて書いていないのだけど、やはり西暦2000年を前にして終末の雰囲気のようなものはあったのだろうか。『エヴァ』のヒットでオタクのみならず、「社会現象」として一般層まで名をとどろかせた庵野秀明は1998年に、実写映画『ラブ&ポップ』を発表している。しかも当時では珍しかったDV(デジタルヴィデオ)を採用している。今では当たり前のように採用されている方式であり、『サイド・バイ・サイド フィルムからデジタルシネマへ』(2012)では映画にかかわる著名人を通してフィルムからデジタルへの移行を語っている。今の映画界の事情を加味すると庵野秀明は先見性のあったと考えられる。

100年以上の映画史にとって西暦2000年を目前とし、新たなフォーマットが出始めてきたといった観点を考えても、もしかしたら90年代終わりには変わり始める独特の雰囲気があったのかもしれない。そんな背景のなか「セカイ系」と呼ばれるアニメのバイブル的作品を作った庵野秀明デジタルカメラで撮影したといったことはとても興味深い。実際に鑑賞してみるとわかるように、『ラブ&ポップ』は90年代の日本の雰囲気が余すことなくパッケージされた作品だ。

1997年7月19日、女子高生4人がお金のために援助交際をする。しゃぶしゃぶを食べながらまるで娘に説教をするかのようなおじさん、料理好きで手料理を食べさせるだけのオタク風の男、マスカットをひとかみさせ容器に保存する変態、レンタルビデオ屋で手コキさせる被害妄想男、ラブホテルで暴力を振るいお前は馬鹿かと説教する男…と、非常に気持ち悪い男たちと援助交際をすることになる。「援助交際」「テレクラ」…と、懐かしい単語が何度もリフレインされる。この妙な懐かしさのは言葉以外にも季節が夏であることも関係しているかもしれない。夏の強い日差し、熱々のアスファルト、背の高い雲、汗と湿気…というものが、まるで蜃気楼のようにおぼろげに脳に焼き付く。実写映画が現実の世界をたんに切り取ったとするのであれば、映画に映っている人物も正確には「人間」ではなく、人間の「複製(=影)」であり、「キャラクター」にしか過ぎないのではないか。夏の効果と映画におけるキャラクターの概念が相まって、いっそうに懐かしい気持ちにさせてくるのかもしれない。

さらに「青春」は人生のかけがえのないひととき(瞬間)を指す言葉だ。誰しも経験することがあり、それは人によって甘くもあり渋くもあり、思い出すと嫌だったり恥ずかしかったりする。それは一定の期間のみであり、線のように見えて実は点の集合体かもしれない。どうだろうか、そんな青春も夏の記憶のようにおぼろげだけれども脳にこびりついて離れないものじゃないだろうか。舞台設定を1997年7月19日と『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』(夏エヴァ)の公開日としているのも、記憶の映画であることを宣言しているようだ。

本作はDV撮影ということもあってか、奇抜なカット割りなどを実験作品のように多用されている。主演の三輪明日美に寄り添った主観の物語進行によってドキュメンタリー映画にも見えてくる。何よりいちばん注目すべき点はラストのエンディングシーン。三輪明日美の『あの素晴らしい愛をもう一度』が流れるなか、渋谷川で四人そろって歩いていくというシーン。ここで今までDV撮影だったにもかかわらず、このシーンだけフィルムでの撮影を採用しており、それまでほぼ四角形だった画角が広がって開放感を獲得している。「フィルムも素晴らしい」とフォーマットおよび体制への反逆をデジタルカメラが映画で一般的に普及する前から宣言しているようにも見える。*1

さて、2000年を過ぎ映画を取り巻く環境は変わったのだろうか。この時期リアルタイムで映画を追いかけていなかったので、9.11後の映画を取り巻く雰囲気はよくわからないが、『回路』(2000)の上映でトロント国際映画祭に行った黒沢清は次作について「現代のテロリスト」の映画を撮ると語っていたらしい。しかしその後9.11が起こってしまった。そんな裏話もあるなか2003年に一部DV撮影された『アカルイミライ』(2003)を発表しているのは興味深い。

確かに20世紀が終わり21世紀(ゼロ年代)と呼ばれる時代に突入してからすぐに、9.11が起き社会が映画に何らかしら変化を与えたのかもしれないが、私は『アカルイミライ』を見ていると、たとえ何らかしら影響を及ぼし映画を取り巻く環境が少し変わったとしても、作品そのものには影響は与えていないのではないかと思った。なぜか?と言われると、なかなか難しいが作る人間は変わろうとも映画は変わらず映画としてそこで待っているような気がするというか。少なくてもDV撮影を取り入れた日本映画『アカルイミライ』と『ラブ&ポップ』の雰囲気は、「空虚」といった意味でそこまで離れた場所にあるとは思わなかった。『アカルイミライ』ではかわいい女子高生なんて出てこない。主人公であるオダギリジョーは、定職に就かずバイトで食いつなぐ生活をしている。いわばフリーターだ。そんな彼には先輩(浅野忠信)がいて、かなり慕っているらしい。そんな彼は浅野忠信アカクラゲに興味を持ち、ふいに触れようとする。しかしアカクラゲは猛毒を持っているため、先輩が彼を静止する。気づけばそのころから破綻は始まっていたのかもしれない。

彼はゲームセンターで得意げに妹の彼氏に披露してみせるが完敗してしまう。また、先輩がバイト首にされてバイト先の社長を殺しに行こうとしたが、気づけば先輩が先に回りこんでいたようですでに惨劇の後。彼には夢や希望がないように、何をするにも全くうまくいかないのである。「空虚」なキャラクターとして存在している。そんな彼がアカクラゲに惹かれるのは、何を考えているかわからない存在だからだろう。クラゲは水分の95%‐99%が水分でできているという。まるで実在していないような生物なのだ。その実在感のなさに彼が興味を持つ。先に『ラブ&ポップ』でキャラクターは影のような存在と書いたが、それに基づき彼らたちもまた日陰の存在<キャラクター>と仮定できる。

いわばクラゲが自分にとってよくわからない存在のように、オダギリジョーもまた自分がわからない。そして世界さえもわからない。『アカルイミライ』はまるで今後の未来をほろめかすような映画ながら、キャラクター自身はどこに向かっているのかわからないのだ。それどころか自分の存在を保つことさえ難しい。どこまで行っても空虚な存在であり続ける。でも、浅野忠信が指さすようにクラゲは海を目指す。そしてオダギリは理解する。エンディングで少年たちが空っぽの段ボールを蹴りながら歩くように、彼もまた空っぽのまま何処かへ向かうのだろう。THE BACK HORNの『未来』がその何もない空虚な世界において、何か希望を見いだせるかのように歌声が指先まで身体に浸透していく。この映画を見ていて20世紀から21世紀へ移行するに何か変わったもの、なくしたもの、得たものがあったのだろうか。映画はいつも変わらぬ強度のままスクリーンの前で私たちを迎えているに違いない。見たら何か変わるかもしれないし、変わらないことが多いかもしれない。観客にできることは、ただスクリーンと向き合うだけだ。

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