赤い紐が繋ぎとめるもの/新海誠『君の名は。』 感想 ※ネタバレ含む

新海誠君の名は。を見た。見ている前提で感想を書いているので物語・演出のネタバレをしています。

画面いっぱいに広大な空(雲)が映され、そこにひとつの赤い物体が線状に帯びて落ちてくる。まるで幻想風景のように美しいそのシーンは、遠くにいるある少年の目にも焼きつく。気が付けばシーンが変わり、どうやら山手線に乗っているようなショットが見受けられ、彼女は何かに気がつく。まるで扉が開く瞬間を待っていたように、カメラが扉が開いた瞬間を捉える。『君の名は。』ではこういった扉が「開く/閉じる」といったシーンを敷居の中央にカメラを置き、扉を「超える/超えない」といった境界を意識させるシーンが多数見られる。この超えるか/超えないか、の「選択」が物語をけん引していくのである。

新海誠の新作は、彼のフィルモグラフィーである『星のこえ』や『雲のむこう、約束の場所』のようなSF的な要素をしっかりと引き継がれており、それに加えて大林宣彦の『転校生』や『時をかける少女』といった「男女の入れ替わり」、「タイムトラベル」といったお約束要素さえも踏襲していく。以下より気になったシーンを項目ごとに振り返っていきたい。

  • 写実的ではなく心象風景

物語としてみれば今までの新海誠作品と大差ないと思うかもしれない。彼の特徴である綺麗な風景描写もある。ただ、本作を見ていると写実的な美しさというよりも心象風景を目指しているんだなといっそうに思った。『秒速5センチメートル』で桜の花びらは秒速5センチメートルで落下していくといった台詞があるが、実際にやってみると5センチメートルよりも速く落下していく。別にそれがいい/悪いとは別の話として、『秒速』はあくまで青春映画で記憶の映画でもある。あくまで彼/彼女のイメージではそのようなスピードに見える。といった話なのである。新海誠はあくまでも超リアルな、写実的な、風景を活用しているのではなく彼の中の心象風景を映像にしているのではないか?と。

君の名は。』確かに綺麗な風景も出てくるが、彼/彼女にとって印象的な風景と出会う瞬間は俯瞰ショットとして、彼/彼女も風景の一部として存在している。隕石が落ちる前と後の絶対に重なり合うことのない2人が入れ替わりお互いの風景を見ている。それ自体があり得ないこと。だけれども彼/彼女は確かに“そこにいる”といった事実を私たちに焼き付けるために、主観ショットを避けてキャラも風景の一部として描いているのではないだろうか。

  • アニメーションと乗り物 ― 「動くこと」

これまでの新海誠作品としても広く受け入れやすいだろうなと思うような作品だったと思う。単にキャラクターが動いて気持ちがいいといったアニメーションを意識させるようなシーンがある。例えば三葉、克彦、早耶香といった3人が話しているシーンが前景として、背景に校庭・学校の風景が見えるが、そこではサッカーをしている生徒がアニメーションとして動いている姿が映されている。三葉が走るシーン(転ぶシーン)や瀧が走るシーンも気持ちよく、青春映画としての強度を保っている。それとアニメーションとしての運動イメージ以外にも、電車、自転車、車、バイク…といったように様々な乗り物を使って、その場所から“動くこと”が意識される。その彼/彼女が動くこと、選択することによって後半の作劇を盛り上げるのだ。

  • 赤と線状のイメージ

三葉は神社の娘であり、いうなれば巫女である。彼女の家では代々「組紐」作りを続けている。彼女の祖母が三葉(入れ替わった瀧)にねじれは〜(略)「時間」だ。という話をするシーンがあるが、彼が飛騨へいくときつけている紐は3年前に三葉にもらった赤い組紐。つまり、彼が三葉として意識して出会っていないときも組紐は時間を超えて彼の手に渡ったということだ。隕石が落ちてくるシーンは実に幻想的だが、紐のように線状に落下が描かれている。瀧が三葉の口噛み酒を飲んで意識が飛ぶシーンで、彼が持つ組紐がまるで3年という時間をつなげるかのように隕石になりアニメーションで贅沢に見せる(この作画が本当にすごかった)。紐は解いていくと1本の糸になる。ベタに考えればこの組紐が赤なので「赤い糸」なのだろう。また流星が割れて大気圏に入ると、熱で星のかけらは“赤く”なる(隕石になる)。流星が割れる姿を「美しい」と表現しているように、隕石が落ちなければ彼/彼女は出会わなかった。皮肉にも聞こえそうな台詞を曲げずに「美しい」と表現とした点に覚悟が見られる。

  • ドアの開閉/線状を断ち切る

冒頭に扉が「開く/閉まる」ことで超えるか/超えないかの選択をしていると書いたが、特に彼/彼女の入れ替えがなくなるまでは必ず「開く」ショットをカメラが捉えている。これは2人がつながっている意味であり、逆に瀧が飛騨に行くときには、新幹線の扉が「閉まる」ショットをカメラが捉える。ここで瀧は事実を知るのでネガティブなイメージとしてこのショットがインサートされているのだ。おそらく開くのは9回か10回、閉まるのは2回のはずで、もうひとつの閉まるシーンは、三葉が滝を見つけて電車に乗り込んだシーン。三葉にとってはあまり良くなかった再会だったため、ここでもネガティブの「閉まる」イメージが使われたのだと思う。*1そのため、彼女は髪を切る(失恋)。髪は1本の線であり、この映画が何度も繰り返すつながるイメージをここでは印象的に断ち切る。もうひとつ断ち切るイメージがあり、それは三葉のへその緒を断ち切るシーン。彼女の亡くなった母親(二葉)とのつながりとして映像で示す。

  • 分岐点/踏襲

この映画では「選択」によって時を超え救えるかもしれない希望を描いている。流星が割れて隕石が“いくつか”落ちていくように、“いくつか”の分岐点が可能性として存在する。瀧が最後に彼女の身体に入るシーン。祖母には一瞬でバレてしまう。*2祖母もまた少女のころ誰かと入れ替わったことがあり、それは三葉以外にも誰にでも存在することである、といったくだり。ここで歴代祖先たちの写真が映される。『魔法少女まどか☆マギカ』で世界中の魔法少女が運命と戦って朽ち果てていく姿が描かれていたが、同じように写真の彼女らにも瀧/三葉と同じような出来事があったのである(瀧の発言)。その忘れたくない記憶を忘れてしまっただけなのである。つまり、たくさんの可能性の果てに彼/彼女は存在する。*3

瀧と三葉が東京で再開するシーン。初めに彼女が見つけ、次に彼が見つける。列車は分岐点を過ぎ断絶するかのように列車が真ん中を走る。そこから、彼/彼女が町中を走る。ここでも何度かの分岐点(交差点)が存在し、それを前に臆せず走って探すのである。そしてすれ違いそうになり思い切って振り返るシーン「君の名前は」と響き渡る声。『秒速5センチメートル』でもラストシーンで「すれ違う」ことが扱われているが、今回では完全に振り切ったように見える。『秒速』も最後に笑顔が見えるのでハッピーエンドとして成立していると思うが、今回こんなに優しく終わったのは意外だった。

  • 最後に

正直に言うと新海誠作品は『星を追う子供』以外、独りよがりが強すぎるせいでどうも苦手だった。それなのに『君の名は。』を見ていて三葉に消えないでほしい。最後2人に再開してほしいと心の底から思っている自分がいた。俯瞰的な映像設計がされていると思うし、強引な共感もなかったと思うんだが、ここまで感情移入してしまうとは…と、恐るべき作家になったなという印象。ただ音楽は少しクドいと思うんですけどね、もう少し映像を信じてもいいんじゃないだろうか。さて、見ていて思い出した歌詞がある。

「素顔のままで生きて行ければきっと 瞳に映る夜は輝く夢だけ残して 朝を迎える孤独を忘れて 赤い手首を抱きしめて泣いた夜を終わらせて」
‐中略‐
「苦しくて心を飾った今も あなたを忘れられなくて」

そうX JAPANの『Rusty Nail』である。映画を見ているときにどうもシンパシーを感じて家に帰ってから再生してみたのだが、『君の名は。』は、状況としては全く逆の『Rusty Nail』じゃないか!といった驚きがあった。

「赤い手首」は「赤い組紐」でしょうし、瞳に映る夜はあの流星群であり、輝く夢はそのまま彼/彼女の状況下におかれる。また「〜流れる時代に抱かれても 胸に突き刺さる〜」といった歌詞もあるように、何年たってもモヤモヤする気持ちだ。「あなたを忘れられなくて」ではなく、「あなたは誰?忘れてしまいたくない気持ち」に言い換えられる。実は新海誠さんV系の素質をお持ちでは…。(しかしこの画像見ると泣けてくる)

余計な妄想が過ぎましたが、最後に声優について。上白石萌音さんの三葉は本当に素晴らしかった。演技をしているというよりも、本当にこのキャラがこの世界に存在していると思わせるような素朴で綺麗で優しい声。何よりその人を意識しないで、三葉という存在を意識させてくれました。既に2回見てしまいましたが、少なくてもあと1回は見に行くでしょう。素晴らしい映画だと思います。

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ほしのこえ

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RUSTY NAIL

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*1:超えるイメージでは冒頭の「喫茶店」の前の線路を超える、田んぼを超える、ご神体での此岸と彼岸(『星を追う子ども』を想起した)…なども。

*2:ここでは新幹線の「閉まる」とは逆に「開く」を意識されており、部屋の引きとがすべて開かれており、奥の部屋から彼女らをとらえて「開かれている」ように見せている。ポジティブなニュアンスが伝わるシーンだ。

*3:瀧が腕に組紐を巻いているのを見ると“ねじれる”まるで「メビウスの輪」のような出口のない円環を意識しているよう。