アニメ(イメージ)であるということ‐『ちいさなほしのゆめ』と『planetarian 星の人』覚書

2004年のKey原作作品ということで特にKeyファンでもゲームファンでもないので知らなかったんですが、配信版のアニメ『ちいさなほしのゆめ』は全部見ていたので鑑賞してきましたplanetarian 星の人』

物語の構成は『ちいさなほしのゆめ』でほしのゆめみと出会うことで心境に変化があった「元・屑屋」が、何十年後もの未来に「星の人」と呼ばれるようになり、あるとき旅路中に村に訪れる。そこで出会うレビ、ヨブ、ルツという3人の子供たちに出会うことでほしのゆめみとの思い出を振り返る。ようは回想で『ちいさなほしのゆめ』をインサートしていくんだけど、これが大部分を占めている。もちろん『星の人』のオリジナリティある物語形成のためには必要なのだけど、例えばゆめみの語りで屑屋が星を見るあのシーンとかもう少し引き延ばしてほしいな…とか贅沢な文句は出てくる。ただ、『星の人』にとって『ちいさなほしのゆめ』は必要不可欠であり、それは創作物すべてに言えるような基本的な「知識」と「想像」の関係を示しているようである。

『ちいさなほしのゆめ』いちばんの見せ場であるプラネタリウムでのゆめみによる特別上映の語りシーン。このとき電源供給が終わってしまいプラネタリウムは機能しなくなっていた。にもかからず、屑屋は「星のことなら何でもわかるからお前の声だけでいい。」と、ゆめみに特別上映を続けさせる。プラネタリウムが機能していないのに彼女の声が舞台装置となり、屑屋はその星の様子を想像(イメージ)することができ、まるでプラネタリウムで上映されているように夜空いっぱいに広がる星々に感動する。感動的なシーンであるが、フィクション(アニメ)とはいえなぜ屑屋はそこまで精巧なプラネタリウムを見ているかのように想像することができたのだろうか。

屑屋が暮らすこの世界では昔戦争が起き人間から空を奪ってしまった。それ以来、空が見えることはなくなってしまったようである。彼が星々を想像できた理由は、空が奪われる前に少なからず星を見ていたか(「屑屋」らしき子供の回想,ペンダント)、聞かされていた、のではないかと考えられる。もちろん、それだけゆめみの語りが上手かったとでもいっていいかもしれないが、あまりにも夢見がちな推測にしか過ぎない。いずれにせよペンダントを持っていることが想像するに必要不可欠なものだったに違いない。だから屑屋は星を想像することができた(とする)。想像するためには知識が必要であることについてのスタンスは『星の人』にも引き継がれている。

屑屋から星の人と呼ばれるようになった彼は旅路に出会った子供たちの才能に気が付き、星の知識を託そうとする。ただ村人からは反対されてしまう。大人たちはいつも子供たちの将来を考える。ただそれは子供の将来というよりも、もっと大きなモノ「社会(村)」を守り、村を存続させることに目的がある。単純に子供がいなければその村は滅びてしまう。大人はそれを防ぎたかった。「何か」前提となるものがなければ存続できないということは、知識と想像の関係にも言い換えられるのではないだろうか。身を案じるにも知識という名の経験が必要であり、彼/彼女たち(または村)の未来を想像するということだ。本作ではこういった「引き継がれる」ことが重要な意味を持つ。また、あの村での女神様の意味合い。「祈る(願い)」誰かを想うことについてやはり「想像する」ことに還元されるのだろう。

アニメないしアニメーションが実写に対して長けている点があるとすれば、それは本作のように「想像する」ことじゃないだろうか。普段生活するなかで視野に入ってくる情報を脳内に補完する。その脳内(知識)にあるデータを紙やコンピュータに出力する。インプット‐アウトプットの関係が単に見たものの模範ではなく、そこに自由に着色され見たもの以上にモノに昇華することができる(と信じたい)。想像するには知識がいる。そしてそれをより感じさせてくれるアニメでトライした本作は支持していきたい。