今更見た『プリパラ』1stシーズンの覚書

前々から見よう見ようと後回しにしてきて気づいたら100話超えていた『プリパラ』重い腰を上げて見たんだが、これが全話捨て回がなくメチャクチャ面白いという奇跡的なアニメだった。一気に1stシーズンを見終えたので簡単に感想を残しておこうと思う。

『プリパラ』は、プリチケが届いた子供は誰でもアイドルになれるプリパラタウンへ入れることができ、その中でアイドル活動をして「いいね」をたくさんもらいアイドルランクを上げて「神アイドル」を目指すといった内容だ。まず、「誰でも」という部分をしっかりと記憶していきたい。しかし主人公である真中らぁらの小学校では校長先生の方針で小学生のプリチケは禁止とされていて、校長先生がプリチケが届いた生徒からプリチケを奪うことに躍起になっている。そう、この学校の生徒はプリチケを入手する喜びとともに、プリチケを「失う」ことの恐怖におびえながら生活しているのだ。

第1話の冒頭らぁらが大声で大騒ぎをする。お母さんからも大声を指摘される。彼女にとって自分の大きな声はコンプレックスとなっており、音楽の授業中でもわざと小さな声で歌っていたと彼女から聞かされる。そしてある日プリチケの入ったファイルを広い、持ち主のためにプリパラタウンまで届けにいくことになる。全生徒が「失う」といった恐怖にかられるなかで彼女は幸運にも「拾う」ことができる存在であり、プリパラに入る寸前にプリチケがまるで運命のように彼女のもとに届く。あれよあれよという間に南みれぃの口車に乗ってしまい「かしこま!」という声とともに彼女はステージに立つのである。そしてステージでらぁらは大声で歌うことで自らのコンプレックスも克服することができる。

主人公として当然のように奇跡的な出会いを果たすらぁらは正真正銘のアイドルといっても過言ではないのだろう。底抜けに明るく他人を思いやるらぁらはその後も仲間を増やしていく。特に感心したのが、「誰でも」アイドルになれるといったこと。とくにクライマックスの物語36話‐37話で特にそのことを感じられた。1期の途中でらぁらが出会うファルルとの一連の物語。彼女はみんなの想いが作り出したアイドルであり、他のアイドルたちのモノマネをすることでアイドルランクを上げていく。しかもプリズムボイスをいつでも出せる。彼女が「想い」の存在であることは彼女の持つロボットの玩具を見ても明らかなように、もとは空っぽの存在であった。その空っぽの彼女がらぁらやアイドルたちに会うことで吸収していく。そんな彼女が初めてらぁらと友達になりたいと自覚することで彼女は機能を停止してしまう。

めが兄ぃが眼鏡をプロジェクターとして映像を投影させるシーンには笑ってしまったが、あれもファルルがみんなの「想い」が投影された存在と思うと面白い演出だと思う。そしてファルルのカムバックライヴ。らぁらたちの歌声だけではファルルは復活しない。“みんな”の歌声が必要なのだと。そして「誰でも」プリズムボイスが(想いによって)出せるようになり、みんながキラキラと光り輝く。いわば誰でも「特別」な存在になれると。*1

ものすごく練りこまれた脚本であると思うし、それらを円滑に説明して見せる演出がさえわたったアニメだと思う。そのほかにもまるで狂ったような演出に舌を巻き、「かしこま!」に完全にヤラれてしまった。「かしこま!」はその場の瞬間ではあるのだが、止めるような働き(効果)があると思う。写真を撮るときの掛け声やポーズとしての役割が正確かもしれない。つまり、その瞬間をとどめること。これはアイドルとしての性分じゃないだろうか。いわばアイドルは永遠には活動できない存在であり、その永遠性のためにポーズを決め、まるで写真のようにその瞬間を「記録=記憶」する。

これから2ndシーズンに入り残り70話程度さらっと見てしまいそうな気がします。それくらいに面白い。さらっと書きましたが今度は主軸の物語のみならず挿話にも注力してガッツリ見てまとて感想あげられればいいなと思っていたり。

*1:男でもチケットが届く設定になっているが、目立つのは1人(しかも女の子のような)だけなので、本当に「誰でも」といったことには言い難いのかもしれない。初めから選別されているのかも。