誰からも認識されなければ存在していないのか?『嗤う分身』※ネタバレあり

よく「客観的に評価してみます」とか「客観的に鑑賞しよう」などと僕なんかでもよく使う言葉なんだけど、いくら客観的になろうが、一人の主観が客観的と判断して言葉や文字に起こすだけ、あるいは思考するだけ。第三者であるはずが、それを認識しただけで、あるいは存在しただけで関係性を持ってしまう。客観的であれば、誰かに何かを録画・録音した段階までで、それを見る・思考、すれば変わってしまう。では、自分以外の誰からも認識されなかった人がいるとして、それは客観的なのかもしれないけど、認識されないことは存在していないのと一緒なのでは?と考える。例えば、こういったブログなんかでも、ブログは「読まれる」ものである。「読まれて初めて価値が発生する」と考える人は多い。僕なんかでもインプットしたものをアウトプットする為にあって、吐き出すことで理解を深めるとか、あるいは書きたいから書くという意思で書いているけど、まあ、誰かしらに読まれたほうが何となく良い。じゃあ、先にいったように、アクセス0であれば存在していないのと一緒か?と。それもちょっと違う気がする。なんだかわからないけど、存在していないものを証明するのは難しい。そもそも、証明するにも認識されなければ、誰に証明するのだろうか?そんな存在の証明について、少しばかり考えるキッカケになる映画『嗤う分身』

『嗤う分身』は、ドストエフスキーの『分身』(岩波文庫だと『二重人格』)を原作とした不条理スリラー。僕は原作未読者なので、原作から逸脱していないかということはわかりません。同じ原作を下地にしている映画とすればベルトルッチの『分身』なんかが挙げられますね。同じ原作としていますが、ベルトルッチのほうは、もっとアヴァンギャルドゴダールの『中国女』のようなカメラワークだったり、原色使った映画。ベルトルッチ版は教師と殺人者という「二重人格」が、ある日、別々に分かれて同じ屋根の下で生活する体裁で、変な映画ですが、主人公ピエール・クレマンティの変人っぷりや、それを使った演出を楽しむ映画だと思う。

二重人格 (岩波文庫)

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ベルトルッチの分身 [DVD]

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対してこちらの作品は、極度に暗い映像やアヴァンギャルドな音響で不条理さを演出させたり、ディストピアSF映画っぽさ(映像の質感で言えば『カレ・ブラン』王道所だと『未来世紀ブラジル』)で、「変な映画を見ているな」と観客たちを惑わしていく映画。例えば、通勤途中にガラガラの電車で座っていると「ここは俺の席だ」と席を立たせられたり、列車の外に出たいのに、搬入が始まってなかなか外に出れない上、外に出たら鞄を挟まれて会社のIDカードをなくす。そして極めつけは、IDカードをなくしたので、何年も務めている会社なのに来客者として出勤しなければならない。何故か他の社員は顔パス。何かしら一つくらいは実体験でありそうですが、そんな不条理ばかりが主人公を包みこむ映画。


ー以下(軽く)ネタバレー

好きな子がいても上手に話せないし、ジャケットはクタクタ…な冴えない主人公の前に現れたのが、同じ顔をした男。コミュ力が高く、好きな女の子をかっさらい、気づけば自分よりも偉くなっている。自分と同じ顔をした男に自分の存在を消されかねない自体が起きる。同じ顔をした男が『複製された男』っぽく相手の立場を悪用しようとする。(女が絡んでいると良いことは起きない…)
果たして自分と対峙する「アイツは何者なのか?」…という確信についてはボカしますが、ようは自分の殻にこもっていたものをアウトプットして勝ち取る…というか、それに打ち勝つような話なんですね〜。冒頭の話に戻ると、証明するもなにも「自分」に対しての問題や欲求に対する話だったということです。これからは彼を「認識する」存在を「証明する」人も出来た終わり方なんですね。


冒頭の主人公を襲う不条理さには笑ってしまったし、窓からストーキングをするアイゼンバーグはヒッチコックの『裏窓』やスパイ映画群を想起したし、本物のストーカーっぽくて良かった。彼は『ソーシャル・ネットワーク』のような、ちょっと変わったオタクやらせると上手いですね。それと、ミア・ワシコウスカミア・ワシコウスカちゃん目当てで見たので、カワイイだけで大満足でしたね。多分、小手先の映画に見えて合わないって人はいるかと思います。ただ、はったりの不条理ミステリー・かわいい女優みたいなら是非鑑賞って感じでー。おわり