友情をピンク映画に取り込む/高橋伴明『襲られた女』を見た。

生きていれば嫌なことは色々ある。平日月曜から金曜まで働き、時には土日出勤、そして残業。うだつの上がらない生活・環境に「転職しようかな」と妄想のように自分のプランを考え、あーでもない、こーでもないと、悩み続ける。考えることは難しいけど、悩むことはとても簡単なことだ。考えることは行動に繋がるけど、悩んでいるのは、ひょっとしたら誰かに話を聞いてもらいたいだけなのかもしれない。自由な世界が目と鼻の先にあるのに、なかなか行動できない。ときに「隣の芝生は青く見える」と諦め行動せず、自ら決めてしまった「檻」の空間にいることを納得させようとする。でも、ひょっとしたら「井の中の蛙大海を知らず」なのかもしれないし、何が正しいのか?なんてこの世界には正解がないのだ。でも、しっかりと自分が何処にいて、何が大切なのか?をじっくり考えなければならないし、もしかしたら、今いる世界には外の世界にない「大切なもの」が存在しているかもしれない。高橋伴明の『襲られた女』を見ながら、ずっとそんなことを考えていた。

囚われていないで自由奔放に過ごすのは、とても素晴らしいことであるが、まず「束縛」されない限り「自由」は存在しない。10月に見たウォルター・ヒル『ジョニー・ハンサム』もこの映画と似たような性質を持っていた。『ジョニー・ハンサム』は、「化け物」と罵られて生きてきた男がある事件をキッカケに、整形手術をして新たに生きて行こうとする「やり直す」映画だ。詳細はネタバレになるので避けるが、彼女もでき、キチンと働き、新たな生活が手の届くところにあるのに、手を伸ばさず、整形する前に自分がいた世界の「大切なもの」の為に、全てを投げやって世界に抗おうとする話。「やり直す」映画であっても、結局は「やり直せなかった」のだ。でも、主人公は不幸せとは思っていない。端から見れば、バカだなんだと言われようが、自分の幸せの尺度を決めるのは自分だし、自分が選んだことに後悔してはいけない。

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さてさて、『襲られた女』はピンク映画ながら、ジョン・ウーの『男たちの挽歌』やジョニー・トーの『ヒーロー・ネバー・ダイ』『エグザイル/絆』だったりの男たちの友情・バディもの作品と近しいところがある。この映画は、その日暮らしをする「何でも屋」のおじさんと、それを手伝う若者を描いた作品。家出少女の捜索、人妻の性欲処理、猫探しなどで生活し、とても俗世で生きて行けない男たちの物語である。

物語が始まってからしばらくは、このうだつの上がらない、ただ生きているだけの世界に彼らは満足してないように描かれる。ただ、最低限”生きている”だけなのだと…
ときに何でも屋は人生の先輩として「お前は若いからやり直しができる」と言ってみたり、若い青年を気怠いこの世界から抜け出して欲しそうな発言が出てくる。こんなおじさんになってはいけないと…

ただ、長々と前段で書いたように、手を伸ばせば新たな世界があるのに、青年は「この世界も悪くはないな」とも思う。それが、ラストシーンのアレだったり、エンドロールに見られるアレであったりする。ピンク映画の筈なのに「男の友情」を綺麗に描いている。確か虚淵玄Lives』の評で読んだと思ったが、挽歌シリーズなり、百合アニメなりがどうしてあるのかというと、それは一つの回答として「”無性の愛”を書き易い」というのが挙げられていた。行為に及んでしまえば、それまでなのだろうが、そこまで及ばない世界にある作品であれば、見返りを求めない”愛”が描き易いのだろう。この映画でもホモソーシャル的な描き方があるにしろ、この映画は更にその先へ行っていて、ピンク映画ならではの演出がある。例えば、挽歌に見られる「女」は俗世のアイコンとして描かれていて、引き戻す役割がある。ただ、ピンク映画という体制のなかの「女」は俗世のアイコンではなく、逆にあちら側の世界の者。『襲られた女』での女は、俗世に引き戻すどころか、男たちの友情のなかに取り込まれる。それがまたピンク映画演出として描かれているのがものすごく上手かった。

僕は70分という尺の短い中、恐らく30分以上涙を流していたし、最後の方は涙で前が見えなかった。でも、それは、泣いていたという行為よりも、涙を流していたという”結果”が正しいニュアンスの伝え方のように感じる。冒頭書いたようなことを映画を見ながら思考し、気づいたら涙を流していたという”結果”。今までみたロマンポルノ・ピンク映画のなかでもトップクラスに好きな映画になりました。ネットレンタルまたは、再発されたDVDなどでどうぞご鑑賞下さい。オススメです。

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