同性愛は「愛」を語り易いか? 『ユリ熊嵐』第2話「このみが尽きても許さない」
『ユリ熊嵐』第2話「このみが尽きても許さない」を見ました。
なんだろう悠木碧の少しオーバー目な演技に翻弄されっぱなしというか「何か」あるんだろう…と思っていたのが、まさかの、もしやの、まさに「クマだったのね?!」な話だった。こうなってくると、案外、漫画版にも忠実な作りになっているのかもしれない。
まだ、わからない部分は多いですが、何となくわかってきたのは「透明な嵐」は、カタチの無い悪意のようなものということ。最近だと、SNS的なコミュニケーションやズバリ「承認欲求」と置き換えられると思う。また、スキをあきらめない人は、2話でいう「排除されている固体が美味しい」に繋がってくる。やっぱり「承認欲求」がテーマになっているのでは?
それ(承認欲求)について幾原監督は、公式スターティングガイドで、以下のように語っている。
その承認欲求を満たす装置として、ツイッターやFacebookが出てきた。僕なんかはそれが恐ろしいと思う反面、もう逃れられないという感覚もある。まぁ、僕はあと数年で、そんなにいきり立っている世代ではなくなるから、適度にオサラバして良いと思うんだけど、これからの若い人は、そういう承認欲求、「いいねボタンを押してもらいたい」という気持ちをどうするのかな?と。そういう興味もあって、この作品を作っています。『ユリ熊嵐 公式スターティングガイド』P.75より。
監督自身ツイッターのアカウントはもっているが、そこまで、積極的にSNS活用していない反面、こういった時代の流れに、無視する訳にはいかないという気持ちがあるようだ。ただ、今回の「ユリ熊」にしろ「ウテナ」や「ピンドラ」にしても、毎回、監督は「愛」を語ってきた。「愛」を確かめ合うということ、現代のSNS的コミュニケーションとは違うが、愛を語ることは、どんな時代も一緒である。
上記記事でも取り上げられていますが、「百合」について幾原監督は、
昔、『愛と誠』という漫画がありましたが、連載中にすでにネタっぽかったですよ。そのくらい、男女で恋愛を描くのが難しくなっている。でも、百合というジャンルに飛び込んで、メタファーとしていろんなものを表現すれば、愛は非常に描きやすい。現代で愛を描くには百合というジャンルはとても良いな、と思ったんです。『ユリ熊嵐 公式スターティングガイド』P.69より。
同性愛で「愛」を描きやすいというのは、昨年発売された『虚淵玄Lives』でも同性愛のほうが、「無性の愛を描きやすい」と語られているように、例えば、「百合」ではなく男同士になるが、ジョンウーの「挽歌シリーズ」は、同性のコミュニケーションがメインになっている。ホモソーシャルなる言葉もあるが、純粋な友情にしろ、愛を物語った作品は映画にも多い。挽歌シリーズなりの作品においての女性は、俗世に引き戻すような効果があると思っている。同性の友情を大いに語りながらも、「女性」を登場させることで、戻る場所が存在しているんだというような扱われ方なのでは?と。また、面白いのが、『襲られた女』という高橋伴明が81年に撮ったピング映画でも同性愛とは少し違うが、男同士の「友情」が語られていた。勿論、ピンク映画なので男女の絡みは何回か登場するが、ある「女性」を通して、彼らの友情が強まるという演出が巧みに設置されており、同性同士の友情・愛を語るにキーになる作品だと思っている。
まだ、今後の展開がわかりませんが、百合は勿論のこと、もう少し純粋な「愛」や、SNSに代表される「承認欲求」に着目しながら鑑賞したい。
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