高橋伴明ピンク映画時代の傑作 『人妻拷問』

「復讐しても○○は喜ばないぞ!」よく映画やドラマで聞く言葉の一つで間違いなく正論だと思う。でも、「アイツらのせいで、○○は死んだんだ!そんな奴らが今も普通に生活しているのが許せない!」これも立場を考えればよく分かる。しかし、「人を殺してはならない」という法律がある前提で言えば、前者が正しい。ただ、後者の立場になったとき、その感情をどこにぶつければいいのだろうか。一度関われば、そう言った感情が生まれてしまう。時間が経って風化すればいいが、こういった人の感情は、永遠に風化されないであろう。

高橋伴明の『人妻拷問』は、妹が強姦されたことに苦しみ自殺してしまったことに耐えられなくなり、彼女を犯した男たちに復讐するため、妹がされたことを彼らの妻に同じ仕返しをする復讐映画だ。相手に同じ苦しみを与えるのは、加藤泰『みな殺しの霊歌』を下敷きにされているように思える。ただ、あの作品はもっと広い意味で復讐する概念*1を語ったような映画だった。

冒頭、主人公の妹が強姦された後にカメラが引きタイトルが出る。こんなことを言うと、不謹慎かもしれないが、このシーンがまるで絵画を見ているかのように美しいのだ。あまりにも美しいので、悲痛なことが起きているのに感動がある。復讐映画にはこういった美しいシーンが多いかもしれない。池田敏春『人魚伝説』でも、素潜りして海面を見やるシーンは絶品だし、アベルフェラーラ『天使の復讐』では、強姦された女が男を殺しまくる爽快な映画ながら、最初は目立たなかった主人公が、段々と男を挑発するような魅惑的なファッション身を包み綺麗になっていく。最後はパーティーに殴り込む混沌としたシーンながらも、殺戮をする彼女の姿は美しかった。生と死を背負った映画は何れも美しいのだ。

「なぜ復讐するのか?」それは死んでいった人たちの無念を晴らす人の代弁的な行為であったり、冒頭書いたようなことだと思う。少し脱線すると、結婚式は自分たちのために行うが、葬式は残された人のために行うと聞いた事がある。それは生きている者が、死んでしまった者への決別をする一つの行事的なものということだろう。それと同様に復讐という行為は、人の為と言いながらも、自分自身の為に行っているのではないだろうか。復讐は結局のところ残された人の思いの塊であり、復讐という行為に変換しただけなのだ。

恐らく復讐しても本人は救われないだろう。理不尽だから復讐しても空虚さしか残らないのだ。しかし、一度始めたらなかなかやめられない。何者かが囚われてる・そこから抜け出せない連鎖に陥るってのは、以前書いたけど『襲られた女』と似たような性質を持っている。

彼は結局、最後に死んでしまうが、復讐しているうちに、妹と同じ苦しみを背負った女と運命的な出会いをする。苦しんでいた彼は彼女と会うことで、たった数時間だが救われるのである。一生風化されない感情が、死ぬ寸前「ありがとう。」と言い終息する。

『人妻拷問』は全体に悲しみが敷き詰められていて、「映画を見ている」と強く意識していないと号泣してしまいそうになる。高橋伴明『襲られた女』、『少女情婦』含め、ピンク映画時代の作品はどれを見ても傑作。ビデオにもなっていない?『歓びの喘ぎ 処女を襲う』ってのも傑作らしいのでいつかは見たい。ただ『人妻拷問』についても、ビデオしかないので見つけたら即確保に走りましょう。

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*1:犯人は自殺した男とそこまで深い関係ではないが、「綺麗なものをめちゃめちゃに、大切なものを壊した・・・」と「壊す」行為自体への怒りが強い。