武内宣之『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』感想

「あの時、あーしていればよかった」と思うことが、これまでの人生で何度かあった。そのたびに、そっちに進んだとして成功したかどうかなどわからないんだと自分に言い聞かせるように考えるのをやめてきたのだけど。岩井俊二の『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』(1993)は、まさしくそのもうひとつの可能性だった世界に実際に行ってみたらどうなったのか?を映像化した作品だった。今では再現が難しいであろう90年代のノスタルジー、そして何よりも奥菜恵の魅力に打ちのめされた人が沢山いたに違いない。アニメ化によって原作の再現というよりも、「if」が可能性(妄想)であることを強調しアニメ―トしたのではないかと。その結果、アニメであること(フィクション)であることを肯定した作品になったのではないかと思う。ただ、「フィクションであること」を求めたわりには、画面の作りこみが弱かったように思えた。*1SWITHCHのインタビューで書かれているように「if」を繰り返すたびに、もっと美術(世界観)を変化して見せた方がよかったのではないだろうか。

川村「新房さんのアイデアだと、「if」が起こるたびに世界がファンタジックになって、絵もどんどん漫画っぽくなっていくのはどうか、とうのがすごく面白かった。最初は実写に近い絵なんだけど、丸い花火が平べったくなるように、「if」を繰り返すたびに絵が2Dになっていく」――SWITCH vol.35「大根仁川村元気〇翻弄されるというリアル」43項

打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』は先に実写版があり、ある程度は意識しなければならないので、シャフトといえど『まどマギ叛逆の物語』のように好き勝手にやれたわけでもなかろうが…。ただ、『化物語*2や『まどマギ』などキャラクターとキャラクターの出会う話――「接点」についての物語をアニメ―トしてきたシャフトが担当したのはいいことだ。

  • 環のモチーフ――フィクションの肯定について

実写版と比べてみると、「水」のイメージが印象的に扱われている。映画のワンショット目、『まどマギ叛逆の物語』(2013)か?と戸惑うほど、水中でブクブクと円を描く瞬間をカメラは捉える。主人公・典道とヒロイン・なずなが最初に互いを意識するのは、海岸でなずながガラス玉を拾うシーン。そこで初めて交わされる視線。そして次が、実写版でも特徴的だったプールのシーン。プールの中でも2人の視線が交わされる。その次は「if」を繰り返した世界で灯台から海へ落ちるシーン。そして最後の「if」では、2人を乗せた列車は海の上を走り、海岸の先まで来た2人は海に入る。水のイメージは循環を意味し、更に回転する風車、らせん階段、学校の形、水しぶき(丸い)、打ち上げ花火が「丸いか?平べったいか?」の命題および、平べったいものが回転する…等の会話など「環」のモチーフを無数に配置している。

アニメ(ーション)は実写と違い偶然性がほとんどなく、意味と意図によって構成されている。それだけ「作り物」――フィクションであることを自覚し、記号的なイメージを連ねることで主題を表象させる。このようなイメージの連なりだけでも、アニメ化して意味のある作品になっていると思う。確かに実写でもやってやれない訳ではないが、アニメであれば「意図」が明確であり、より一層「if」可能性・妄想――すなわちフィクションの肯定になっているように思えた。*3

典道の「if」の中でヒロイン・なずなの妄想へ移行するシーンもある。誰かの「if」であったとしても、そこにはまた誰かが存在して無数の「if」も存在するのだと。*4灯台から海へ落下した先にある「if」は、その海への“落下”によって――キャラクターの深層まで落ちていった奇妙な美術設定であった。*5そして、ガラス玉が打ち上がり、上空で粉砕し光が乱反射して、彼/彼女らの無数の「if」が映される。

  • 実写版との差異――なずなの両親について

実写版との差異で、なずなの両親のエピソードが大きく違っている。実写版では、両親が離婚するために転校しなければならなくなったのだが、アニメ版では、母親が再婚するために転校しなければならない設定に変更されている。『化物語』や『まどマギ』など、誰かの誰かの出会いの物語―――キャラクターとの接点について描いているシャフトであるからに、スタジオ色が出ていていいなと思った。同時に「死」の香りも出ているところが特徴的。

なずなの父親が海で溺死したように描かれるシーンがある。彼女は直接的に「死んだ」とは言わないものの、彼女の父親らしき人物が海で溺死しているようなショットが会話の途中で混入される。このショット思い浮かべると、オープニングでなずながガラス玉を拾った場所も同じく海であり、環のモチーフが繰り返し登場することからも、父親の死から物語がスタートしているように思える。花火という一瞬の美もまた、二度と戻ることのない事柄を指しているようにも思える。だから、彼女は「今日だけは」と繰り返し発言する。

「この時間は永遠ではない。大好きな友達ともいつか離れ離れになって、どんなに願ってもすべては瞬く間に過去の物になっていく。今というこの瞬間を容器に詰め込んで冷凍保存できればいいのに。そうすれば怖がることなんて何もないのに」――『響けユーフォニアム2』第一回

ユーフォニアム2』で久美子と麗奈が花火を見ているシーンからの引用だ。「今というこの瞬間を容器に詰め込んで冷凍保存できればいいのに…」――そう。その体験する時間は永遠ではないから、その時間を記憶に刻み込みたいと思う。久美子のいう「冷凍保存」が、典道が投げる「if」のガラス玉であり、一瞬を続けることを可能とした。しかも、典道の「if」は他人の「if」(ここでは妄想と)も同時に叶える。なずながアイドルにでもなっちゃおうかなと松田聖子の『瑠璃色の地球』(1986)を歌いだすと、彼女の妄想世界にダイブしていく。これも存在する「if(可能性)」のひとつであり、フィクションを肯定するシーンだ。

  • 最後に

奇妙なバランスで成り立っているが好みの作品だった。ただ、大根仁の脚本はいかがなものかな?と首をかしげる瞬間がありましたし、冒頭に書いた画面の充実度ってのも少なからず引っかかった部分がある。まあ、広瀬すずの声は生々しくてとてもいいと思った。


*1:画面に釘付けにして時にめまいすら起こさせる“強いショット”が存在しなかったように思える。ただ、“強いショット”なんて言葉は各自の記憶体験にも結び付くだろうし客観的に指数で表せなかったりもするのだが

*2:特に『傷物語』はひとつの作品を3つに分断したといったことに注目されたい。

*3:タイトルの「下から見るか?横から見るか?」といった命題もまた「絵」であるアニメに対する問題もはらんでいるように思える。

*4:丸い、平べったいだけではない花火の形もまたそんなフィクション肯定のひとつだろう。また「if」であればガラスを通したとき、水を通過するとき、の光の屈折もそのようなイメージになっていないだろうか。

*5:転落死(彼岸)も暗示しているように思える。