肖像画に残される想い−黒沢清『ダゲレオタイプの女』感想

クリーピー』に続き今年2本目の黒沢清ダゲレオタイプの女』を見た。まずは結論からいうととてもよかったと思う。素直に面白かった。『リアル』以降の黒沢清長編映画って『クリーピー』もそうなんだけど、どこかぎこちなさっというか違和感があっていいシーンがあれど頷けなかった。しかし『ダゲレオタイプの女』はどうだろうか、違和感がなくてすーっと身体に浸透していくような人の血や骨となる作品だったのではないだろうか。『リアル』以降の作品にしてはビックリするくらい違和感がないというか、すごく抑制が効いているように思えた。

「現地の人から見て「恥ずかしい」シーンは撮らないように心がけました。」

公式パンフレットを読むとクラシックドレスを着た女優が石畳を歩くシーンで「すごいものを撮れた!」と思ったのに対して現地スタッフが「えええ?」って反応だったらしく、上記の言葉のように他人からの視線にかなり慎重になっていたのではないかと考えられる。それがいい方向に転んだ結果が本作だった。『リアル』以降の長編映画ではベストな出来であるし、とても「好き」な映画。どうも作品を俯瞰する気が起きない、いつの間に自分の前にそっと現れるような作品だ。

いちばんビックリしたのが映画のファーストショットだった。フランスで撮っていること。そしてゴシックホラーを思わせるような触れ込みからもう少し田舎というか、現代ではなく少し前の時代を匂わせるような作品だと思っていたのだが、高い位置からセットされたカメラが最新鋭の列車がホームに入ってくる様子をとらえる。そして「ここでカメラをおろしてくるぞ、きっとおろすぞ」と思えば、煽ったアングルはすーっと下降し列車から降りてくる人をとらえ、「ここで立ち止まる人がいるはず」と予測すればピタッと(おそらくスマホを見ながら)止まる男が出現する。それが主人公ジャン・マラシス(タハール・ラヒム)だった。

そして写真家(ステファン)のもとで仕事をすることになる。写真スタジオとは思えぬ趣のある古びた洋館を前に彼は2つのドアを開ける。これが彼の体験するすべての始まりだった。黒沢清がよくいっている「歯車」だろう。機械がガタガタと動いてもう「死」が止まらなくなってしまう。その「歯車」の部品には様々な彼の映画体験を見ることができる。初めから指摘されていたよう(インタビューでも語っていたが)に、『回転』(1961)のオマージュや蓮實重彦が語るように小津安二郎溝口健二高橋洋稲生平太郎らの言葉を借りれば「手術台映画」として『生き血を吸う女』(1961)や『顔のない眼』(1960)等々のイメージ。そして撮り終えたあとにヒッチコック(特に『めまい』(1958))だと指摘されたという。探っていけばいくらでも出てきそうな映画の記憶。それだだけ彼は原体験に忠実な作品を作ったといえるのかもしれない。

ジャンはスタジオで写真家の娘マリーが“ダゲレオタイプ”と呼ばれる古い装置によって撮影された写真(銀板)を目のあたりにする。まるで生きているような等身大の彼女だ。ダゲレオタイプと呼ばれる装置は露光時間が長く、30分ないし120分といった時間被写体を全く動かないままにしておかなければならない。そういった背景からダゲレオタイプには被写体を留める固定器具が必要不可欠だ。ダゲレオタイプは現代のデジタルカメラスマホのカメラのようにいつでもどこでも撮影はできない。決定的な瞬間をあたかも自然を装って写真にすることはできないのだ。それとは逆に被写体がダゲレオタイプに寄り添っていかなければならない。数十分の露光時間を耐えるということを考えると、写真というよりも肖像画に近い特性をもっていると考えられる。銀板(ポジ)に定着させ、それそのものが観賞用とされてしまう。その特性上ダゲレオタイプは複製ができない。まるでその人の生き写しのような肖像画となる。ただダゲレオタイプは左右が逆に映し出されてしまい、確かに似た複製ではあるがすべてが同じというわけではないのである。

話を戻すと現代風の列車や街の風景。そしてガラッと変わり古風な洋館と古風な服を着た女。そして古風な装置を使って撮影する写真家。と、ジャンが現代と過去のように都市と郊外を行ったり来たりするシーンが何度も反復される。それはダゲレオタイプに必要不可欠な固定器具のようにテーマに必要不可欠な要素である。そしてもうひとつキーになるものが「再開発」だ。昔ファッション写真を撮っていたというステファンの家は再開発プロジェクトの地域のようで今なら高値で売れるらしい。だけど、彼はこの家に何かの想いがあり、手放そうとはしない。彼にはそこに留まる理由があるのだ。娘マリーによると彼の妻が植物園で首を吊って亡くなっているらしい。ステファンに起こる不可解な出来事を考えると、どうやら彼はその妻の影におびえこの家から出ていくことはできないようである。そして元凶はどうやら“ダゲレオタイプ”にあるようだ。彼は娘だけではなく、もともとは妻を被写体としてダゲレオタイプの実験を重ねていた。妻の自殺した理由は明かされないが、ダゲレオタイプによる撮影で死に導かれていることを匂わせる。

ダゲレオタイプは器具で被写体を固定するように、被写体そのものから生気を奪ってしまう。120分の露光を終えたマリーが生気をなくしたようにぐたっとしていく様子を見ると、ダゲレオタイプによって魂が抜かれてしまったようである。偶然にも同じフランス映画『アッシャー家の末裔』(1928)では、主人が妻の肖像画を描いているうちにその肖像画が生きているように見えてくる。そして本物の妻が死んでしまうことになる。黒沢清はそうやってさらっと映画史をなぞってくる。同じように『ダゲレオタイプの女』も事態はとうとう手の負えない方向へ。ステファンが妻の幽霊におびえながら後をさると、後ろからマリーが現れ偶然だが彼を追うように階段を登っていく。ここで視聴者はとんでもない映画史を目のあたりにする。蓮實重彦の言葉を借りると…

「女が階段から垂直に転落すれば、幽霊になるに決まっている。」

ここからがサスペンスフルに事態が進行していきジャンが死んだ?と思われるマリーを猛スピードで車を運転し病院に連れて行こうとする。よそ見をしているとあれまと車がスピン。そして後部座席にいないマリー。気がつくと道の傍らで立ちつくし、そしてまた倒れる。まるで幽霊のように。

ジャンはマリーやステファンをこの土地から引き離すため(また自分のため)、土地の権利書を探し躍起になる。家じゅうを探し、しまいには無事に生きて連れ戻したマリーを死んでしまったことにしてステファンを説得しようとする。しかしステファンはそれどころではない。温室で妻とまた再会してしまう。まるで『叫』(2006)の葉月里緒奈のようにステファンに迫る妻。この「此岸/彼岸」の接近はまるで『回路』(2001)のようでもある。権利書を見つけたジャンは彼を説得するのをやめ自分でステファンのサインを“模範して”契約を結ぼうとする。それはもちろん失敗する。ここでのサインはダゲレオタイプと同じだ。ダゲレオタイプは被写体を複製するが、それは全く同じものではない。左右が逆になる。模範しても差異が必ず生まれてしまうということだ。ダゲレオタイプすら扱えない(禁じられている)ジャンには複製を生むことができない。だから契約は却下され、仕方なく事務所にステファンを連れてこようとする。

しかし、ステファンは拳銃自殺を図る。彼の妻が首を吊ってこの家に留まることを決めたように、彼もまたこの家に留まることを選択する。仕方なしに逃げたジャンはマリーを田舎へ連れ出していく。逃避行を選び教会(境界でもある)で2人だけの式を挙げようとする。だが神父に見つかり追いやられる。ここでカメラは俯瞰になる。そしてジャンだけを捉えるカメラ…。彼女もまた幽霊となっていた。ダゲレオタイプにかかわったものたちは、あの家に「留まる」ことになったのだ。「再開発」から取り残される洋館。『ビューティフル・ニュー・ベイエリア・プロジェクト』(2013)が『叫』に対する「再開発」のような作品(ロケ地を考えると)だとすると、『ダゲレオタイプの女』はその要素をひとつの作品で背負ったいうことがわかる。最後の「良い旅だった」がどんなに胸を打つ台詞だろう。彼の周りがすべて過去のものとなり、彼だけが現在に戻されていく。マリーがそこにいるなら一言「愛してる」と伝えてあげられないだろうか。こんなに優しくて暖かい黒沢清がいただろうか。『勝手にしやがれ‼』シリーズ(1985−1986)が終わってしまったかのような想い。まるでそこに残留していくような…

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