「考察ドヤァ」出来ないので、気になるコト抜き出してみた 『ユリ熊嵐』1話「私はスキをあきらめない」

みんな来たぞー!幾原邦彦の監督するアニメが始まってしまったぞー!
これぞ大号令みたいなもので、「幾原ワールド」なるメタファーによる、メタファーの輪舞、メタファーによる満足感、メタファーによるアドレナリン増加現象…

ウテナ」の時代はまだ小学生だったので、世間の評判なんてわからなかった。

4年前の「ピングドラム」では、まさに「考察ドヤァ」勢による、まさにドラッグ・ウォー毒戦、、、、「俺氏、幾原ワールド理解した」「いやあ、ピンドラつまらんでしょ」に至る血肉のドロドロした戦いのもと、「最終回は1話と繋がってたんや!」つーか「銀河鉄道の夜」いやはや!いやはや!…。こうして戦争に幕を閉じたのである。

冗談はさておき、あの幾原邦彦監督の新作ということで、アニメ生涯ベストに「ウテナ」を挙げる僕としてもたいへん期待していた作品なので、想いはブログに残しておこうかなと。ただ、1話を見てもあまりにも意味深なワードが多くて、何を掴んでも、すっと手元から離れてしまうというか、どうとも解釈できてしまうので、僕じゃあ「考察ドヤァ」出来ねえなあってことで、今後の為に、気になることをメモ並に挙げておきます。


■ユリ、承認!及びユリ裁判(罪熊)
紅羽(くれは)の友人である純花(すみか)が、熊に襲われて起きるイベント。普通、裁判ってのは、加害者と被害者で行うものである。なので、この場合、人間と熊が立っていないと成立しない。しかしながら、この場面での検事と弁護士はどちらも熊である。なんとなく、熊が代理として人間側に立っていることが見てわかるが、ちょっと意味深なシーンだ。

また、紅羽と熊たちの濃厚な百合シーン。あきらかに、アレがアレしてアーレレレー!な雰囲気が漂っているが、あの場面で食べられた(百合られた)のは紅羽。しかしながら、物理的に食べられているのは、最後のシーンになるが、純花ということがわかる。この辺のロジックをひも解いていくのは、後何話か視聴しないと難しいだろうと感じる。


■断絶の壁
熊が人間を襲った際に作った、人間と熊の世界を隔てる壁。壁と聞くだけで、ATフィールドのようなモノを連想するが、「障壁」と捉えると、誰かが超えなければならないモノという風に捉えられるかも。次の「透明な嵐」にも繋がるが、百合の世界(熊)と百合がない世界(人間)という風に隔てているのでは?とも何となく思ったりもする。


■透明な嵐
「透明な嵐」が、百合を断絶するモノなのか?と感じた。紅羽が熊と百合ってたときに、「透明な嵐の中、わたしは探す」「約束のキスを、わたしに」と言っていた。紅羽と母親らしき人物との過去の会話の中で、過去スキな子が熊に食べられた的なニュアンスがあった。透明な嵐=熊にならないような雰囲気だが、透明な嵐は百合をわけ隔てる存在に見える。また、悠木碧演じる百合園さんが、百合の花が切り落とされていた現場で「見て見ぬ振りを…」という発言があったので、百合を隔てるモノ・コト(例えばイジメ)ではないかな〜と推測。「断絶の壁」とセットにして考えると、熊の世界が”百合が受け入れられている世界”、人間の世界が”百合が受け入れられていない世界”なのではないか?と感じた。

また、すみかが襲われた後、モブキャラが襲われない為には、「友だち」と一緒にいなきゃという発言していた。その「友だち」という発言が、やたら強調されているな感じたので、やっぱり「百合」と「友だち」の世界と分け隔ているのでは?と勘ぐる。ただ、一言に「百合」をわけ隔てているかというと、根底にあるテーマはもっと奥深いモノで、OP主題歌のポンジュール鈴木「あの森で待ってる」でも「私を承認して」という歌詞があったり、「ユリ、承認!」であったり、「承認」つまり、承認欲求?的な勘ぐり、現代SNS的なコミュニケ−ションのあり方を百合と友情で表現(批判)しているのかな?と感じた。だから、「透明な嵐」を回避する為の群れるという行為は、SNS的コミュニケーションのメタファー的な…(わからないけど)


特に気になったことはこの辺だったけど、効果音を口頭(ガウガウ、クンカクンカ、じゅるり)で表現をしているのが面白かったり、熊に襲われたときはRPGのエンカウントシステムっぽく敵とぶつかったら(程で)裁判(戦闘)が始まったり、演出の凝り方が面白い。また、OPで薔薇が舞ったり、花壇、屋上、螺旋階段と「ウテナ」や「ピングドラム」を感じて終始ニヤニヤするし、見ていて純粋に楽しいですね。このまま継続視聴で。

ユリ熊嵐 (1) (バーズコミックス)

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