なぜ細田守は橋本カツヨを殺したのか?『バケモノの子』感想

細田守『バケモノの子』初日にいってきた。散々映画館にかよっていながら、初日に駆けつける作品なんてほとんどない。やはり『空より淡き瑠璃色の』で橋本カツヨに惚れた身としては、いくら『時をかける少女』で絶望して、『サマーウォーズ』崖から突き落とされたとしても『おおかみこどもの雨と雪』で、ゴミ収集車に放り込まれても…。『バケモノの子』は這ってでも初日に行かねばならぬ。「生きねば」と。

『バケモノの子』そこには、橋本カツヨなんていない。『時かけ』『サマウォ』『おおかみ』と続く「カツヨ・イズ・デッド ザ・ファイナル」といったところだ。そして物語の最後に「闇」を切り裂くように、これはカツヨ殺しなんだと。結婚と子どもの誕生。彼は橋本カツヨを殺すことで、完全なる”親”になり、残った遺体を埋葬しスーツをビシッと決めて都会へいく。『バケモノの子』これは、橋本カツヨとの決別を覚悟した細田守の物語だったんだ。

さて、ウテナゾンビの戯言はこれまでにして『バケモノの子』を振り返るとする。
物語は大きく三つから成り立つ。
誠に勝手ながら下記のように分けさせていただき、項目ごとに書いていこうと思う。

1.「熊徹と九太の関係」九太が家出してバケモノの世界で熊徹の弟子になる。
2.「居場所を模索する九太」九太が大人になり人間の世界とバケモノの世界で心が揺れる〜熊徹と猪王山との司祭戦。
3.「なぜ橋本カツヨを殺したのか?」九太が一郎彦を救いに渋谷へいく〜闇を殺すまで。

1.「熊徹と九太の関係」
熊徹と九太が互いに分かち合うまでは、親と子って描かれ方よりもステレオタイプな世代ギャップを感じさせる対象に見えた。たとえば、卵がけご飯を食べる描写ひとつとっても「賞味期限はまだ大丈夫だよな…」って発言があったり、修行シーンでも、九太は「ちゃんと説明しないとわからないだろ」といったようなことを口にする。昔気質な人であれば、「師匠から技を盗むものだ」と思う人は少なくないだろうし、熊徹にもそういった気質がある人物だ。

ただ、こういった世代ギャップ演出の裏には、熊徹の過去に秘密があった。熊徹には家族がおらず、我流でひたすら強くなってしまった。だから、コミュニケーションをとることが苦手。いったんは熊徹なんて…と思った九太であったが、世界の老師たちに「強く」の意味を聞きに旅に出た際に、熊徹の境遇を知ることになる。

弟子になるまでで素晴らしかったのは、熊徹の足さばきをコピーするところ。「技を盗むもの」と言ったけれど、まさに師匠の技を盗むことになる。さらには、これは熊徹自身のレベルアップにつながっている。ここでは「子ども親の背中を見て育つ」といったことと、「子どもから教えられることが多い」といった子育てあるあるモノをやっている。細田守お得意の「同ポジ」も健在で、熊徹と九太の修行シーンを一つの場所で季節を変えることで時間経過を感じさせる。また、九太がバケモノの世界に迷い込んだところは、どこか『千と千尋の神隠し』を感じさせるし、特に九太が逃げるシーンの市場のシークエンスは、千の親が豚になったときの感覚が蘇った。


2.「居場所を模索する九太(蓮)」
九太が育ったことにより、熊徹が多くの人から認められることになる。そしてある日、九太は、バケモノの世界に迷い込んだときと同じように人間界に迷いこんでしまう。九太が大きくなってから語られるのは居場所の模索。「同ポジ」同様に細田守お得意の「分岐点」の演出だ。おジャ魔女の『どれみと魔女をやめた魔女』や『おおかみこども』といったように、彼はこれまで、ふたつの世界で揺れ動く主人公を度々描いてきた。

九太が揺れ動くのは、懐かしい世界への憧れってのもあるが、彼に手を差し伸べるひとがあまりにも多すぎるからなのかもしれない。

幼少時代バケモノの世界に来た九太は、熊徹、百秋坊、多々良といった親代わりである三人に手を差し伸べられた。そして、成長した九太に手を差し伸べるのは、初めての異性・楓や本当の父親だ。楓からは自分の将来のことや知識を。そして本当の父親との再会で過去と未来について。熊徹との修行シーンで時間経過の演出が使われたが、本当の父親と再会することで表面的に見えることではなく、精神的な意味での時間経過も感じさせる。(「こどもと大人との時間の流れかたは違う」といった発言)*1

結局、九太のそばにはいつも必ず誰かがいる。彼に差し伸べられた手が多すぎて整理がつかない。だから彼は父親にも八つ当たりし悩まされる。しかしながら、彼が正気を失って一郎彦を殺しかけたときも、幼少の頃から一緒にいるチコや楓から譲り受けた”赤いしおり”に気づかされ、正気を取り戻すことができた。彼は彼を気遣ってくれる人たちに育てられたからこそ、一歩立ち止まることができたのだ。そして、熊徹を殺されかけられ、一郎彦の闇との決着をつけにいく。


3.「なぜ橋本カツヨを殺したのか?」
彼が『白鯨』でクジラとの戦いは復讐ではなく「実は船長の自分との闘いである」と学んだように、彼は自分の一つの未来だったかもしれない一郎彦と決着をつけにいく。最後に楓から譲り受けた”赤いしおり”を一郎彦に託すあたりは、息子がひとに何か残すことができるひとになって欲しいといったような細田守の願望じゃないだろうか。

『おおかみこども』のときは、まだ「見守る」といった客観的な視線が強かった。それに対して『バケモノの子』これは、彼が結婚してこどもができて、親になる覚悟・決心の物語だ。本作は『時かけ』以降のなかでも一番エンターテーメントに振り切った作品だと思うし、誰が見ても一定以上の面白さを味わせるのではないだろうか。よくポスト宮崎駿と揶揄されるが、それは彼自身の一部でしかない。あの伝説の『ウテナ』29話のコンテを切った、橋本カツヨでは宮崎駿にはなれないだろう。だから、九太が闇に打ち勝つように、細田守橋本カツヨを殺して、新たな世界に旅立った。

彼がインチキくさいとか説明不足だと言われる”闇”について。うがった見方をすれば、九太が一郎彦つまり自分自身との決着をつけるように、細田守は自分の闇の部分である橋本カツヨとの決着をつけたんだと僕は思う。橋本カツヨを殺す前の『オマツリ男爵』は傑作だったものの『劇場版ワンピース』のなかでは下から数えたほうが早い成績だった。もしかしたら、ルフィは生き残ったが、あのとき既に橋本カツヨは死んでしまったのかもしれない。

やはり、橋本カツヨに惚れた身としては『バケモノの子』を見ている間、とても複雑な気持ちだった。ただ、エンターテイメント作品であり、いつまでも細田守を引きずっていたらダメなんだ。『バケモノの子』の大衆性は、ひょっとしたら新海誠が『星を追う子ども』をつくったニュアンスに近いのかもしれない。そして、渋谷の爆発では『ガメラ3』を想起し、クジラがすーっと動く一連のシークエンスは『天使のたまご』がよぎった。二つの世界という意味では『千と千尋の神隠し』だろうし、本当に覚悟を決めたんだなと…。

もしかしたら、親としての役目が終わったときに、墓場からゾンビとして橋本カツヨが蘇るかもしれない。僕はそんな日が来ることを待ち望んでいる。「カツヨ・イズ・デッド ザ・ファイナル」にして、橋本カツヨまた会う日まで…。さよなら、さよなら、さよなら。


バケモノの子 絵コンテ 細田守 (ANIMESTYLE ARCHIVE)

バケモノの子 絵コンテ 細田守 (ANIMESTYLE ARCHIVE)

SWITCH Vol.33 No.7 細田守 冒険するアニメーション

SWITCH Vol.33 No.7 細田守 冒険するアニメーション

*1:各人物の親としての役割はエキレビのたまごまごさんの記事で説明されている。細田守最新作「バケモノの子」を観てきた。あっちもこっちも父だらけ - エキサイトニュース