『劇場版 PSYCHO-PASS サイコパス』を見た。

異国情緒な雰囲気、やや曇りかかったネオンが幻想に誘い、気温や湿度がスクリーンを通して伝わってくる。言えば「ブレラン」的なビジュアルを感じさせる舞台に、思わず「居心地がいいな」と感じスクリーンへ没入する。過去の記憶が現代に結びつき鳥肌が立つ、そう言った経験は貴重で「オマージュ」だと一言に纏めてしまうので少し寂しい気がしてしまう。こういったモノがどのような意識で作られているのか、そんなことばかり考える。

「劇場版サイコパス」は1期と強く結び着いた作品である。ただ、1期のオープニングのように、雨の降りしきる街中を人を除けながらゼイゼイと息を切らす常守朱はそこにはいない。そこはオマージュ元の作品とは一線を描す部分で、サイコパスでは常守朱の成長が常に描かれてきた。1期の槙島との対峙、2期のカムイとの対峙を見れば一目瞭然であるが、彼女の中には大きく「何か」が芽生えている。いや、もしかしたら、それは成長というよりも、もともと彼女が持っている「何か」なのかもしれない。1期で狡噛が槙島と接触することで、少しづつ変わっていった経緯があったが、常守朱は、槙島、カムイ、狡噛から影響を少し受けつつも、彼女自身の力で成長してきた。あくまでも”取り込まれない体質”であるし、依存し過ぎない体質なのかもしれない。

劇場版ではシビュラシステムを世界に輸出することで、シビュラによる世界征服の足掛けが描かれている。常守はこの選択を否定しているが、内戦で苦しんでいた国がこうして救済されていったとしたら、果たして何が正義なのだろうか。ただ、システム構築の為に、膿を絞り出すことは必要なようで、一概に誰もが正しいとは言えないことがわかる。こう考えていくと、サイコパスの世界もスクリーンの前に広がる世界も本質は変わらないのではないか?何が正しくて、何が正しくないのか、クッキリと線引きして、違反した者を罰したとき、果たしてその頂点に立つ者は、「正義」なのだろうか。

TVシリーズと比べて見てもアクション比率が高く、エンターテイメントとしても素晴らしく、シリーズらしく「哲学」的なモノへの語りかけもいつも通りだった。非常に優れたバランス感覚を持つ作品でした。