村上氏の名古屋的なもの『色彩を持たない 多崎つくると、彼の巡礼の年』

やっと読めました。村上春樹氏の新作『色彩を…』(長いから省略)村上春樹小説でわりと発売日から数ヶ月満たない期間で新作を読むということは僕にとって初めての体験です。
なぜわりと早く読めたのかという、理由が2つあって、まず1つ目が、”名古屋”が舞台になっているらしいということ。(どちらかというと観念的でしたが)そして、もう1つが芸人が盛大に批判していたこと。(殆どが1の理由です)何となく村上春樹小説って信者も多ければ、批判を受ける対象だったりしてますよね。
個人的な村上春樹との距離感は、結構客観的に見れているほうだと思ってます。その前の「1Q84」は、文庫本になってから上巻の1巻しかまだ読んでいないので、ハルキストとはほど遠い存在ですが、その前までの作品はリアルタイムではないですけどわりと読んでいるほう。
別に盛大に批判してても良いと思ってます。でも、「ファッション感覚」とかいっちゃって100万部売れてる事実を、ひがみみたいに言うのはかっこわるいよなって思うんです。売れれば良い作品っていうことは勿論ないわけですが、売れている事実ってのには目を背けたくないし、結果的に自分も購入していますが、華氏451みたいな世界になるのは嫌じゃないですか、電子書籍も悪いとは思いませんが、写真や映画のフィルムのように、近い将来、手に入らなくなる状況は寂しいと思うのです。別に握手券とかアニメのフィルムが特典としてついている訳ではなく正攻法で戦っている訳ですからね。


前置きが長くなりましたが、少しずつ内容に触れていきます。
まず、購入理由の1つ目「”名古屋”が舞台になっているらしいということ。」ですが、これは現在僕が名古屋に住んでいるからですね。もう2年以上住んでいる訳ですが、やっぱり故郷の東京とはまるっきり違う世界と感じています。初めて転勤してきて新幹線改札口から東山線に乗り換える際の衝撃は凄かったです。だって女の子がみんな派手なんですよ。後でわかったことですが、名古屋のどの地域に行ってもその傾向は強くて、これが”名古屋城”ならぬ”名古屋嬢”なのかと納得しました。東京であれば、渋谷や原宿など限定された地域でしか発生しない事象ですから東京人としてはびびったものです。

村上氏の『色彩を…』ではたびたび名古屋的なもの(あくまでも村上氏解釈)が登場します。受付の女の子の話では下記のように名古屋的なものとして紹介しています。

レクサスの受付にいたのと同じ、名古屋でしばしば見かけるタイプの女性だ。整った顔立ちで身だしなみがいい。好感も持てる。髪はいつもきれいにカールしている。彼女たちは何かと金のかかる私立女子大学で仏文学を専攻し、卒業すると地元の会社に就職し、レセプションか秘書の仕事をする。そこに数年勤め、年に一度女友だちとパリに旅行し買い物をする。やがて前途有望な男性社員を見つけ、あるいは見合いをして結婚し、めだたく退社する。その後は子供を有名私立大学に入学させることに専念する

”あくま”でも村上氏の名古屋的なものですが、何となく的を得ているように思えるし、確かにトヨタやレクサス等の一流企業の受付嬢は可愛い・綺麗が当たり前だったりする。ただ、一流企業の受付嬢が綺麗だなんて名古屋以外でもわかることだ。村上氏がいいたいのは、彼女らが歩んできた道筋が、”超”名古屋的で名古屋から出られない呪いのようなものがあると言いたいんじゃないだろうか。僕も新幹線を降りたときの衝撃と語っているように、どこか名古屋的なものを少なからず感じるし、なんとなく村上氏が言いたいこともわからないでもない。
それと、名古屋と言えば、”トヨタ”の存在が大きいだろう。名古屋的を語るにトヨタは外せない存在だと思う。しかしながら、トヨタは名古屋的どころか世界的企業として有名だし、レクサスは海外の高級車と比べても遜色が無いくらいの性能は兼ね備えているらしい。(車はよくわからないので、あくまでも一般的イメージですが)誤解が無いように書いておくが、トヨタは名古屋的だと言ってしまったが、恐らくあの地域の人に”名古屋”と言うと気分を害する人もいると思う。(だって街の名前まで変えちゃうくらいですから)村上氏が名古屋に住んだことがあるのかまでは知らないが、住んでいたら名古屋!とハッキリ書かない気がする。愛知県内でも三河もあれば豊橋だって犬山もある訳だし、名古屋なんてほんの一部の地域だろ!って思う人も少なくない。第一トヨタ本社は名古屋市内にはない。

それと、村上氏は「名古屋は巨大な田舎」発言(ちょっと拡大解釈)

名古屋は規模からいえば日本でも有数の大都会だが、同時に狭い街でもある。 人は多く、産業も盛んで、ものは豊富だが、選択肢は意外と少ない。

なんとなく言わんとしていることはわかります。住んでみて気づくものですが、名古屋は観光地ではありません。栄や大須のような賑やかな場所はありますが、ほんの一部だけであり、電車で2,3駅移動すれば、東京では考えられないくらいに駅周りになりもありません。何も無いってのは少し語弊がありますが、車社会というのが一番の原因でしょう。名古屋だけでなく、他の県にいけば当たり前ですが、東京・大阪と比べ車で移動した方が都合のよいように街が作られており、国道沿いにお店が建ち並ぶ傾向が多いです。駅だけ見れば”名古屋駅”は非常に立派で、大都会な雰囲気で満ちあふれていますが、実際はそうではなく、観光と言っても名古屋城くらいで、あとは車で三重や岐阜に行く人が多いです。ただ、実際住んでみると意外と住みやすいです。何を買えばよいかって栄に行けばなんでもありますし、僕は転勤者なのでわりと都会に住ませてもらっていて、車も必要ないくらいに移動範囲が少ないです。ある種名古屋的ではないかもしれない生活をしていますが、なんとなく選択肢は意外と少ないってのは同意できる。買い物もある場所にいけば大体のものが揃ってしまうし、それ以降探求する精神も朽ちてしまう。東京だったら、新宿・渋谷・原宿・吉祥寺・丸の内と傾向に合わせて多種多様なものが買えるし、選択権が多過ぎるってくらいある。それが、「巨大な田舎」につながるんだろうけど、確かに住み易さって言う意味では非常に意見が合うな。


詳しく考察している人のブログを見ると、過去の村上作品の語り直しだそうで、突っ込んだ解説がされています。僕はそこまで村上作品に思入れが無いのと、結構昔に読んだきりで覚えていないので詳細に語れませんが、登場人物の名前が”変”だなーといつも思います。ファンタジーに人を牽引していくには、名前も少し抽象的だったりする必要があるのかもしれませんね。実際村上氏の作品を読んでいて地に足がついているというか、ふわふわ浮かんでいるような錯覚に陥る印象があります。今回は、『色彩を…』とタイトルとついているように、主人公多崎つくる以外には、アカ、アオ、シロ、クロ、ミドリ、ハイと名前に色がついている人物が出てきます。名前に色が出てくると言えば、P・オースターのニューヨーク三部作の『幽霊たち』でもブラックやホワイト、ブルーなどの人物名に色がつけられています。『幽霊たち』でもミステリー・サスペンス性を高めているような効果が出ていたと思うし、名前が簡単だと誰が誰だかわかり易くていいです。

以上私的な名古屋解釈も含めて、『色彩を…』は、ハルキストではない僕からしても、まさに村上春樹的な小説で、ふわっと一瞬の幻想的な安らぎに連れて行ってくれる作品でした。雲を掴むような話だと言ってしまうとおかしいけど、なんとなく村上氏の小説はいつもどこにいってもこういった読了感が持てる。村上氏的名古屋解釈が過ぎるところもあるかもしれないが、ファンタジーとリアリティのバランスが上手くとれていて、なかなか成功している小説ではないかと思いました。

※個人的名古屋・愛知県解釈が過ぎる部分もあり、気分を害された方は申し訳ありません。

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年

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幽霊たち (新潮文庫)

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1Q84 BOOK 1

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