内藤瑛亮『ミスミソウ』(2018)
現代版『修羅雪姫』といったところだろうか。『パズル』などで定評のある暴力描写と雪原風景、端正なショットや編集力といいなかなか見所ある作品だったのだが、一方で原作つき映画というのは難しいものだと思うようなところも多々あったのも事実。前半はとてもよかった。壮絶ないじめにあう少女が一家を焼き殺されるという衝撃的なエピソード。原作未見だったので思わずギョッとしたのだけど、そこから少女は言葉が話せなくなり、事実を知り復讐を始めるといったもの。あることからまた話せるようになるのだけど、話せないときの殺しシーンが素晴らしい。冒頭いじめられているシーンで穴に靴だの鞄を捨てられて泥だらけになって拾い集めるというシーンがあるのだけど、最初の復讐の舞台がそこから始まる。今度は穴からターゲットが蟻地獄のように穴にハマってしまい逃れられない。逃げようとする者の腱を切って落としたり、目に鋭利なものをブッ刺したり、爽快な惨劇が始まる。ここでの主人公の無双感が映画の嘘っぽくととてもいい。また、2人目を殺すときも、前からスーッと歩いてきて相手の前に立ち吹き飛ばされると同時に相手を刺している。一瞬の出来事。このように中学生の少女ではできないようなアクションというものが化け物のように繰り広げてしまう――話せないの無言で――事実がかっこいい。この人間外な力は過去の映画を参照してキャラクターを作り出しているのだろうな〜と思える。登場シーンとか特にね。
でも、この映画どうしても原作の呪縛を解き放てていない。火事で両親が殺されるシーンなんだけど、ここでトリックがある。詳しくは書かないけど、いじめられていて両親殺された挙句に同級生に自殺してとか言われたり絶望なんてレベルじゃないことが起きて、それでも自分を助けてくれる存在がいて何とかギリギリ生きているわけなのだけど、そこでこの作品は救済をまったく与えないわけだ。火事当日の事件全容が少しずつ明るみになるのだけど、回想を暴くっていう過去を描くってのが多分映画ではあんまりおもしろくならないんだよね。なんでも時間が進まないわけだ。映画は時間を観客に強制しているものであり、時間が進まないと退屈する。だから彼女が喋れるようになったり、出来事が起こらないドラマパートになると一気に速度が落ちていく。もう、いっそのこと無言のまま淡々と人殺しのシーンを積み重ねたほうが絶対面白いなと。それがこの映画は原作があるからできない。どうしても付け足したり省略することはあっても世界を壊せない。映画より30分連載ものアニメやドラマが性質に合ってるんだよね。観客は「待つ」ことをどうしたって強制されるから。
でも内藤監督ってのは光るものを持っていてその中でもできるだけ映画の嘘を生かしている。『ライチ☆光クラブ』はこの監督はだめになってしまったと思ったけど、『ドロメ』は面白かったし、『パズル』だってサイコーなわけだ。ようはロケで映える。それとフォロイーさんに教えてもらった短編『救済』を見たのだけど、これも抜群なわけ。『ミスミソウ』までいかないけど、いじめられっ子の話で万引きとか強制されるのだけど、そこでトイレに忘れられた拳銃を見つけて同級生を撃ち殺そうとする。このときの中村ゆりかの表情が素晴らしいってなんのって。それでも中学生が拳銃撃っても当たるわけがないんだよね。腕が反動で飛ばされるし、しまいには転んで銃を川に落っことしちゃう。復讐できないし、どうしようもないのだけど、頭がちょっとおかしいお母さんとのラストの対峙がしびれるね。ただ家に帰ってくるだけなんだけど、彼女にとって一番消したいものはこのお母さんなんじゃないかと思ったね。ほんと。そんな顔してる。
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高橋洋『霊的ボリシェヴィキ』(2018)
久々に怖い顔を見た。多分、昨年心霊ビデオで見た(タイトルを失念した)幽霊の顔がめちゃくちゃ怖くてトラウマ級だったのだけど、『霊的ボリシェヴィキ』に出てくる俳優さんは基本的に顔が怖い。例えば主演の韓英恵にあてられる照明のせいでまるで吸血鬼のような顔つきになるし、南谷朝子は気が狂ったおばさんって感じで近づきがたい。人を殺したという役をしている巴山祐樹はいかにも好青年が裏に何か抱えているヒミツを顔で表現できている。この『霊的ボリシェヴィキ』はまさに顔の映画であるともいえるのだけど、ようは顔というのは人を誰かとして判断するに一番重要視されるパーツであるということなのだと思う。のっぺらぼうが怖いのは顔がないからで、口裂け女が怖いのは口が裂けているからだ。自分たちと違うから怖いと思ってしまう。私たちは毎朝顔を洗って鏡に映る像を見てそれを自分だと認識する。そこで一安心するわけだ。ここには自分がいるぞって。でもそこに少し違う自分がいたとしてもそれは自分ではないと思うのだろうか。少し違うだけで判断できるのだろうか。
南谷朝子が夢で廃墟に訪れそこにいた女の人に「ここで〇〇がこんな風に死んで」とそこで死んだ人について詳しく説明されているとき、その女は本当に真実を語っているのだろうか。シチュエーションというものはどうにでも心理操作ができてしまう。それがすべて嘘っぱちでも廃墟で聞いてもないのにベチャクチャと気味悪いことを言っていれば怖いに決まっている。「怪談話をすればよってくる」というだけあって雰囲気は本物を呼んでしまうことがある。だから「顔を見ようとしてもモヤがかかっていて顔がわからなかった」と本当に怖い話になる。恐怖とは数式で本当に生まれてきてしまう可能性があることを示唆する。『霊的』であれば何かの廃工場のようなだだっ広い空間。レーニンとスターリンの肖像画(写真)、録音機と数々のマイク、トランプを取る手、幽霊の足、化物の声、百物語というシチュエーション。そして極めつけの生贄。そういったパーツが雰囲気を生んでいる。そのパーツを骨格のように扱って最後に血肉すなわち身体を手に入れる。流れる血は怪物を生み出す原動力となる。映されたパーツは怪物の身体のような役割を担うんだね。
雰囲気づくりの映画だと思った。歌っちゃえば雰囲気が変わるし、おかしくない話を馬鹿笑いすればそれは「わかったような」雰囲気の笑いになる。怖い話をしていれば時間はあっという間に経つし、夜に二人で怖い話をしていれば――または逆であるが――妙な切り返しが始まり、恐ろしい足が出現する。雰囲気を作るために宗教にかかわりのあるものは燃やされなければならないし、雰囲気を壊せば雰囲気を作るために殴られる。だからその場が破綻してしまえば当然のように全員殺してしまう。黒沢清の『予兆』(ドラマ版しか見ていないが)が久々に面白かったのも高橋洋脚本の賜物だろう。『旧支配者のキャロル』も発売したし買わないとな。
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映像に映る生霊(≒私)を見たとき――クリント・イーストウッド『15時17分、パリ行き』(2017)
イーストウッドの進撃が止まらない。80歳を越えても尚、新作を連発するイーストウッドの存在は、毎年新作を見る楽しみになっており、それは嬉しいことなのだが、何やら奇妙な映画を作っている。近年『アメリカン・スナイパー』(2014)、『ハドソン川の奇跡』(2016)と実話モノが続き、どちらも妙に淡々としていて奇妙な映画に思えたのだが、2015年にアムステルダム発―パリ行きの列車内で起きた実際の事件(タリス銃乱射事件)を映画にした新作『15時17分、パリ行き』もこれまた奇妙な映画だった。
今作で話題になっているのは事件に巻き込まれた人物――特に主演の3人は冒頭から終わりまで出演している――を本人役として映画に起用したことだ。そして、犯人を制圧した3人が勲章を授与されるシーンで、実際のニュース映像と映画を切り返してみせる。一見、アメリカ賛美の英雄壇とも取られそうなテーマだが、そんなところはどうでもいい。実話ベースの前作、前々作でも顕著だったが、今まで以上に高揚するシーンを排除して、出来事を淡々と撮影してつなげる。編集もこざっぱりしていて、特に秀でた画面も続いていかない。観光シーンも、軍人になろうと懸命にトレーニングしているシーンも、犯人を制圧したシーンも、すべて等価であるように撮られている。*1唯一の差異はニュース映像を使用した切返しショット。これでも映画が作れてしまうのだと。
たとえば素人を起用した濱口竜介の『ハッピーアワー』(2015)のような効果を出そうとも、ロベール・ブレッソンのモデルの概念などを考え起用したとは思えない。だからといって、本人を本人役として起用する『クローズアップ』(アッバス・キアロスタミ、1990)にするわけでもない。彼らが本当にそこにいた事実を映画に“淡々と”残していくような試み。人間的でもなく機械的に、彼らがまるで生霊のようにさまようかのように…(かといって幽霊的な感覚とは少し違うと思うのだが)
それくらい見ていて怖いというか、奇妙な印象を覚えた。ニュース映像が使われているので、それまでのシーンとハッキリと違いが出ているのであるが、実に奇妙な光景だ。自分が撮影された動画をその場所で見ている感覚に近しいだろうか。そこには自分らしき存在が記録されているが、普段、自分の姿は鏡を通してではないと見ることができないので、自分がこんな風に動いているのか?自分はこんな声をしているのか?と奇妙な感覚に陥ることがある。もちろん自分も俳優ではないので撮影されることなんてほとんどない。画面に映っている彼らが素人であることから、彼らもまた似たような感覚に陥っていないかと。だから、事件に秘められた残虐性とは違った感覚を残している映画なのだと思う。
こういった感覚は早撮りの手法によって、生まれてきているように思える。まず、出来事を撮影するといったこと。大胆であるが、決して手法落ちしていない。なんやかんやとイーストウッド賛美をしてみたのだが、実際のところ、70年代の『荒野のストレンジャー』(1973)、80年代の『ペイルライダー』(1985)、ゼロ年代の『ミスティック・リバー』(2000)、『父親たちの星条旗』(2006)、『チェンジリング』(2008)の衝撃と比べるとそうでもなかった。それらの作品とは性質的に違うものだと頭でわかっていても、なかなか受け入れられない自分がいるのだろう。特に何事も起きない観光のシーンはとても楽しく見たのだが…。ただ、どこか引っかかる作品だったと思うので、時間が合えばスクリーンで再鑑賞してみようと思う。
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ギレルモ・デル・トロ『シェイプ・オブ・ウォーター』(2017)
『シェイプ・オブ・ウォーター』は声が出せない女性が主人公であり、彼女はとても狭い世界で生きているものとして描かれる。政府の研究施設の掃除係として働き、孤児であり家族も恋人もおらず、風呂場でマスターベーションをして、隣人である画家の世話をしたりしている。毎日同じような日常を過ごしていたが、職場である怪物と出会う。種族を超えて彼女はその怪物と恋に落ちていくのだが…
美術設計や演出面は素晴らしいものだった。しかし、どうも「愛」の違いによって露骨に性描写*1を変えてしまうところが、演出の一環だとしても感性が苦手だった。そして、物語の終わりで二人の物語を見守る物語だったことが示唆されるのだが、そんな優しい視線が苦手。そんなものは「孤独」でもなんでもないだろう。といいたいところだが、そこは本質的なところではない。というのも先に言ったように映画としてはすごくよくできている。デルトロってこんなに演出が巧かったのかとびっくりしたくらいだ。*2
オタクの逆襲的なものを権威に向かって突きつけてやった、といったところなのだろうか。そして、それがアカデミー賞作品賞を取った。権威に対して正攻法の作品として抗っていく姿勢は見事なのかもしれないが、どうも本作で繰り広げられる権威の失落と無名人の勝利といった逆転劇が、オタク側の視線として注がれすぎのように思えた。それが露骨に性描写を変えたり、物語的な幕引きに現れていると思う。目新しい物語ではないし、今の時代になってもオタクの逆襲をやってしまうのか?さすがにナイーブ過ぎないだろうか。今の時代にこのような映画が生まれてしまったことが、どうなのだろうか?どうも保守的じゃないだろうか。物語の利用価値としての「怪物」にしか思えなかったところが残念だった。いまだに続く環境下からこうさせたかもしれないが、そこは別問題として考えていなければならないように思える。私は孤独な少女の妄想とスペイン内戦を対比して見せた『パンズ・ラビリンス』や、特撮・アニメ的記憶の想起をさせてくれる『パシフィック・リム』を支持したい。
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ディズニー長編アニメーション――『白雪姫』(1937)、『ダンボ』(1941)、『バンビ』(1942)
最近ディズニー長編アニメーション『白雪姫』(1937)、『ダンボ』(1941)、『バンビ』(1942)を立て続けに見た。恐らく見るのは幼稚園か、小学校の低学年以来のように思える。おおよそ、二十数年ぶり。どれも間違いなく面白い上に、アニメーションとして最上級の喜びを与えてくれるような作品だった。
しかしながら、思っていた以上に細部を忘れてしまっていることに驚いた。『白雪姫』であれば、白雪姫が毒りんごを食べ意識をなくす…おおよその設定しか覚えておらず、彼女を殺せと命じられたキャラクターの存在なんて覚えていないし、後ろから刺し殺そうとする鬼気迫るシーンをまったく覚えていなかった。毒りんごを食べるくだりなんかは終わりの20分くらいで加速するというのに。『ダンボ』であれば、母親は死んでしまったんだっけ?と思っていれば監禁されているだけだし、『バンビ』は母親が死んでバンビも成長して…といった大まかなくだりは覚えているものの、雌鹿を取り合ってバンビが雄鹿と決闘するシーンなんて殆ど記憶になかった。
ここまで忘れているとはさすがにショックであったのだが、どれもこれも教養的に見ていたにも関わらず、今になって改めて見たところ、教育的な内容とはとても思えない。ここでの「教育的」とは、私個人の経験でもあるのだが、恐らく多くの人々がこういった作品群を幼少期に親から見させられていたといった経験を持つからだ。実際に私も親に見させられていた。もちろん、そうではない家庭もあるだろう。ただ、私の観測として、そのような人が少なからずいるから、このような断言をしていることを理解頂きたい。
では、なぜ「教育的」ではないか?ここでいう教育的とは多くの人が思うだろう道徳の観点から来ている。では、本作品群は道徳的な作品ではないか?というと一概には言い難い。というのも『白雪姫』は、わかりやすい悪者として、女王を登場させているからだ。自分がいちばん美しくなければ気が済まない。魔法の鏡が、「白雪姫がこの世でいちばん美しい」といえば、「白雪姫を殺してその証拠に心臓を持ってこい!」などと命じてしまう。そして、殺すことに失敗すれば自ら毒りんごを食べさせるために行動する…といった誰の目にもわかりやすい悪者として登場する。キャラクターデザインについても、悪者にしか見えないような恰好をさせて、一目で「悪者っぽい」イメージを与えることに成功している。それに対して白雪姫は優しそうな顔つきで、声は甘く、肌は透き通るように白い…といったことで善人であることを主張している。ただ、実際に善人であるかは、映画からはよくわからない。わかりやすい勧善懲悪を勉強する――悪いことをしたら罰が与えられる――において『白雪姫』が教育的なのかもしれないが、白雪姫自身が道徳的か?というとそうでもない。
驚かされるのは素敵な家を見つけ森の動物たちと勝手に他人の家に入り、家が汚いからといった理由で勝手に家を掃除し、勝手に料理を作り、勝手に寝室に入り、挙句の果てに眠いから、勝手に寝室で寝てしまうといった行動である。宿確保のために、善行をこなしているつもりなのだろうが、実際には無許可で人の家に上がり込み、挙句の果てに家の中で勝手に生活してしまう常識外れの娘なのだ。ただ、こういった指摘を映画やアニメーションしても意味はないだろう。私自身そう思っている。では、何が言いたいかというと、例えば自分の子供に映画を見せる際にどのような基準で作品を選定するのか?また、『白雪姫』のようなわかりやすい勧善懲悪の作品において、勝手に人の家に上がり込んでしまうといった常識外れの行動をどのように考えているのか?「人はどこまで細部を見ているのか?」といったことだ。(飛躍しているだろうといった指摘はあるだろうが、個人のブログなので大目に見て頂きたい)
ひいては、蓮實重彦の「画面を見ていますか?」につながっていくのだが、正直言って答えを持ち合わせてはいない。おそらく、子供に見せるといった行為は、教育的であり道徳的な意味合いからよりも、まず、面白い作品を子供に見せたい…といった欲求が第一にある。自分が面白いと思ったものは人に勧めたい――特に自分の子供であればなおさらそう思う人が多い。そして、次に子供の年齢を考えて、対象となる作品を子供に見せてもいいのか?と考えるだろう。そのような場合、特に相手が子供であれば、誰が見ても一目瞭然でわかりやすい物語であることが優先される。こういった手続きを踏んでから見せるといった行動をとるだろう。
自分がそうであったように細部を忘れてしまっていることもある。昔見てよかった映画を説明するときに、細部まで細かく説明するよりも相手に伝わりやすいように要約して説明することが多い。自分ではポイントを押さえて説明しているつもりでも――人に説明する方法などの技術は上がっても――その対象から徐々に遠ざかってしまうことがある。説明しやすいように人間は記憶を整理したり、時には本人も気づかない間に捏造しまう可能性があるだ。別にそれが悪いといったわけではない、そのような手続きを行うことでなくしてしまうものも確かにあるのではないか?と思うのである。
何やら結論もなく長々と垂れ流して書いてみたが、こういった表面上の教育的・道徳的なことがらよりも、母親が亡くなったと理解したバンビと老鹿の切り返しショットや、白雪姫が毒りんごを食べ倒れるくだりで、リンゴを食べるショット(クローズアップ)を挟まずに、身体の一部だけ写し「倒れた」と表現する上品な演出。また、『ダンボ』における上昇下降や夢のシーンなど、画面から直接的に伝わる感動を忘れてはならないと思う。画面は雄弁に物事を語ってくるのである。
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クロード・バラ『ぼくの名前はズッキーニ』(2016)
66分のランタイムがちょうどいい。ちょうどいいというのは、母親を自らの手で殺してしまった子どもが、愛するもの/愛されるものを見つける、また見つけられるといった題材を扱うに重すぎず、軽すぎずバランスがとれているからである。またクレイを使用したストップモーション・アニメーションだったことも幸いしているだろう。映画は限りなくフィクションだと主張しながらも、実写と遜色なくキャラクターへ実在感をもたらすことに成功している。
特に冒頭、彼が罪を背負ってしまう簡素なくだりが素晴らしい。屋根裏部屋でビール缶を積み上げることに失敗し、ビール缶はけたたましい音を立て階段を転がり落ちていく。それに腹を立てた母親は屋根裏部屋に上っていくが、主人公が閉ざしたドアによって鈍い音とともに転がり落ちていく。彼が家に帰ってくる際に母親の後姿を捉えるショットは見受けられるが、母親が正面からおさめられるショットはこの映画に出てこない。彼女が「死んだ」という決定的証拠は階段を落ちる鈍い音のみであり、後々に「お母さんは亡くなったの」と諭される様子が見受けられるが、それ以上は追求することはないのである。彼は自分の名前ではなく「ズッキーニ」という愛称で呼ぶことを義務づける。それによりかろうじて母親の存在を認識できるのだ。事実はすでに起こってしまったこととし、その先のドラマを物語ろうすることで観客をフィクションの世界にいざなう。
特に情動に揺さぶられるわけもなく、自分で閉ざしてしまったドアを他人が手を差し伸べてくれる優しい映画だ。いかがわしい誇張もなく優れた作品だと思う。しかしながら、特に惹かれる物語でもなく面白みを感じなかったのも事実。こればっかりは「合わなかった」と好みの問題で済まされるだろうか。年々に好みの問題というものに懐疑的になっている自分がいる。ただ問題を先送りにしているだけではないのかと。円盤化されたら改めて見ようと思う。
王兵『苦い銭』(2016)
「男と逃げるんじゃないよ」
ある一室でのやりとり。どうやらここにいる子どもたちが家族の為に出稼ぎにいくらしい。雲南省からバスや電車を乗り継いていき、丸一日かけて個人経営の縫製工場が立ち並ぶ湖州に降り立つ。そこでは、出稼ぎに行った先でお前はとろいので首だと宣告される男や、「殺してやる!」と喧嘩する若夫婦、「このハサミは社長が研ぐべきだ」と酔っ払いながらハサミを持ち歩きながら女に絡む男…など、出稼ぎ労働者たちを記録する。
王兵がドキュメンタリーといった体制を取りながらも、優れた作品を撮るのは、そこにカメラを置いていれば(回していれば)何かが起こると信じているからではないだろうか。それと優れたロケーション選び。初めての映画とされるリュミエールの『工場の出口』(1895)があるように、人が騒がしくうごめく姿を見ることは端的にいって面白い。ワンビンの監督デビュー作が巨大な工場での出来事を記録した『鉄西区』(2003)だったことも頷ける。『鉄西区』は9時間にも及ぶドキュメンタリーであるが、まるでアトラクションのように人や機械、列車は動き回り、見ていて飽きない。『苦い銭』も頭がおかしいな?と思える人々の動きが面白いし、ロケーション選びが素晴らしい。街灯や看板のネオンが濡れた路面に反射する夜のシーンは魅惑的だ。
また、貧困と背中合わせになりながらも、そこにいる人々は苦悩でとどまるといったことはせず、仕事がなければ仕事を探しに出かけるし、長時間労働を強いられるなら悩む暇もなく――正確には撮影していない、もしくは編集している――地元へ帰ったりする。映画が面白くならないのは、「真剣に悩んでいます」と見えるような演技をダラダラ撮影した停滞する時間であり、反復に繋がらない画面を面白みもなく続けてしまうことだろう。卓越した技術を持つかのフレデリック・ワイズマンもまたカメラは対象に影響を与えないといっているように、カメラを置けば何かが向こうからやってくる。*1そんな感覚を王兵の映画にも感じる。それに、王兵は人を撮っているとともにその場所(環境)を正確にフレーミングしているのがいい。
面白い現象が起こるまでそれを撮るおよび編集する。撮影しているものがどういう効果を得ているのかよく理解している。と感じる。理由もいわず、支離滅裂に「ここから出ていけ!殺すぞ!」と妻を脅す夫の姿が魅力的なのはその執拗な反復と、後々その夫婦が路上で横並びに座り、「家を出てから稼いでないな…」とため息をつく姿――支離滅裂な喧嘩姿を見た私たちにはそれでも付き合っている(和解したかどうかはわからないが少なくても担保されている)という差異として認識する――を撮影していることだろう。それと何よりも、どの構図もキマッているのが端的な面白さにつながっているように思える。いかに映画は要素をそぎ落とし、シンプルに構成してもここまで面白くなると。やはり王兵はブレない。
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*1:ここには劇映画で役者が行う演技と、ドキュメンタリーで素人が撮影されることについておおよそこんな注釈では説明しきれないこと(またそのすべてを私が説明できるわけもなく)があり、ここでは説明を省いている。たとえば監視カメラで知らない間に撮影されている人もまた演技をしているのではないか?といったことなど。