クロード・バラ『ぼくの名前はズッキーニ』(2016)

66分のランタイムがちょうどいい。ちょうどいいというのは、母親を自らの手で殺してしまった子どもが、愛するもの/愛されるものを見つける、また見つけられるといった題材を扱うに重すぎず、軽すぎずバランスがとれているからである。またクレイを使用したストップモーション・アニメーションだったことも幸いしているだろう。映画は限りなくフィクションだと主張しながらも、実写と遜色なくキャラクターへ実在感をもたらすことに成功している。

特に冒頭、彼が罪を背負ってしまう簡素なくだりが素晴らしい。屋根裏部屋でビール缶を積み上げることに失敗し、ビール缶はけたたましい音を立て階段を転がり落ちていく。それに腹を立てた母親は屋根裏部屋に上っていくが、主人公が閉ざしたドアによって鈍い音とともに転がり落ちていく。彼が家に帰ってくる際に母親の後姿を捉えるショットは見受けられるが、母親が正面からおさめられるショットはこの映画に出てこない。彼女が「死んだ」という決定的証拠は階段を落ちる鈍い音のみであり、後々に「お母さんは亡くなったの」と諭される様子が見受けられるが、それ以上は追求することはないのである。彼は自分の名前ではなく「ズッキーニ」という愛称で呼ぶことを義務づける。それによりかろうじて母親の存在を認識できるのだ。事実はすでに起こってしまったこととし、その先のドラマを物語ろうすることで観客をフィクションの世界にいざなう。

特に情動に揺さぶられるわけもなく、自分で閉ざしてしまったドアを他人が手を差し伸べてくれる優しい映画だ。いかがわしい誇張もなく優れた作品だと思う。しかしながら、特に惹かれる物語でもなく面白みを感じなかったのも事実。こればっかりは「合わなかった」と好みの問題で済まされるだろうか。年々に好みの問題というものに懐疑的になっている自分がいる。ただ問題を先送りにしているだけではないのかと。円盤化されたら改めて見ようと思う。