ギレルモ・デル・トロ『シェイプ・オブ・ウォーター』(2017)

シェイプ・オブ・ウォーター』は声が出せない女性が主人公であり、彼女はとても狭い世界で生きているものとして描かれる。政府の研究施設の掃除係として働き、孤児であり家族も恋人もおらず、風呂場でマスターベーションをして、隣人である画家の世話をしたりしている。毎日同じような日常を過ごしていたが、職場である怪物と出会う。種族を超えて彼女はその怪物と恋に落ちていくのだが…

美術設計や演出面は素晴らしいものだった。しかし、どうも「愛」の違いによって露骨に性描写*1を変えてしまうところが、演出の一環だとしても感性が苦手だった。そして、物語の終わりで二人の物語を見守る物語だったことが示唆されるのだが、そんな優しい視線が苦手。そんなものは「孤独」でもなんでもないだろう。といいたいところだが、そこは本質的なところではない。というのも先に言ったように映画としてはすごくよくできている。デルトロってこんなに演出が巧かったのかとびっくりしたくらいだ。*2

オタクの逆襲的なものを権威に向かって突きつけてやった、といったところなのだろうか。そして、それがアカデミー賞作品賞を取った。権威に対して正攻法の作品として抗っていく姿勢は見事なのかもしれないが、どうも本作で繰り広げられる権威の失落と無名人の勝利といった逆転劇が、オタク側の視線として注がれすぎのように思えた。それが露骨に性描写を変えたり、物語的な幕引きに現れていると思う。目新しい物語ではないし、今の時代になってもオタクの逆襲をやってしまうのか?さすがにナイーブ過ぎないだろうか。今の時代にこのような映画が生まれてしまったことが、どうなのだろうか?どうも保守的じゃないだろうか。物語の利用価値としての「怪物」にしか思えなかったところが残念だった。いまだに続く環境下からこうさせたかもしれないが、そこは別問題として考えていなければならないように思える。私は孤独な少女の妄想とスペイン内戦を対比して見せた『パンズ・ラビリンス』や、特撮・アニメ的記憶の想起をさせてくれる『パシフィック・リム』を支持したい。

シェイプ・オブ・ウォーター (竹書房文庫)

シェイプ・オブ・ウォーター (竹書房文庫)

*1:具体的にはマスターベーション、正常位、カーテンを閉める、抱擁の変容

*2:緑と赤の視覚的演出――繰り返し「食べる」行為(転がっている指をそれまで食べ物が入っていた袋に入れ、次のカットでシリアルを箱から出して食べるといったカットつなぎが特に示唆的)が赤を生み出し権威が緑を痛めつける。最後にはそれを逆転劇として盛り上げる。また、捕らえられたものを逃がしたり、また捕らえたり、といったシンプルな運動で物語を進めているのがよかった。