ディズニー長編アニメーション――『白雪姫』(1937)、『ダンボ』(1941)、『バンビ』(1942)

最近ディズニー長編アニメーション『白雪姫』(1937)、『ダンボ』(1941)、『バンビ』(1942)を立て続けに見た。恐らく見るのは幼稚園か、小学校の低学年以来のように思える。おおよそ、二十数年ぶり。どれも間違いなく面白い上に、アニメーションとして最上級の喜びを与えてくれるような作品だった。

しかしながら、思っていた以上に細部を忘れてしまっていることに驚いた。『白雪姫』であれば、白雪姫が毒りんごを食べ意識をなくす…おおよその設定しか覚えておらず、彼女を殺せと命じられたキャラクターの存在なんて覚えていないし、後ろから刺し殺そうとする鬼気迫るシーンをまったく覚えていなかった。毒りんごを食べるくだりなんかは終わりの20分くらいで加速するというのに。『ダンボ』であれば、母親は死んでしまったんだっけ?と思っていれば監禁されているだけだし、『バンビ』は母親が死んでバンビも成長して…といった大まかなくだりは覚えているものの、雌鹿を取り合ってバンビが雄鹿と決闘するシーンなんて殆ど記憶になかった。

ここまで忘れているとはさすがにショックであったのだが、どれもこれも教養的に見ていたにも関わらず、今になって改めて見たところ、教育的な内容とはとても思えない。ここでの「教育的」とは、私個人の経験でもあるのだが、恐らく多くの人々がこういった作品群を幼少期に親から見させられていたといった経験を持つからだ。実際に私も親に見させられていた。もちろん、そうではない家庭もあるだろう。ただ、私の観測として、そのような人が少なからずいるから、このような断言をしていることを理解頂きたい。

では、なぜ「教育的」ではないか?ここでいう教育的とは多くの人が思うだろう道徳の観点から来ている。では、本作品群は道徳的な作品ではないか?というと一概には言い難い。というのも『白雪姫』は、わかりやすい悪者として、女王を登場させているからだ。自分がいちばん美しくなければ気が済まない。魔法の鏡が、「白雪姫がこの世でいちばん美しい」といえば、「白雪姫を殺してその証拠に心臓を持ってこい!」などと命じてしまう。そして、殺すことに失敗すれば自ら毒りんごを食べさせるために行動する…といった誰の目にもわかりやすい悪者として登場する。キャラクターデザインについても、悪者にしか見えないような恰好をさせて、一目で「悪者っぽい」イメージを与えることに成功している。それに対して白雪姫は優しそうな顔つきで、声は甘く、肌は透き通るように白い…といったことで善人であることを主張している。ただ、実際に善人であるかは、映画からはよくわからない。わかりやすい勧善懲悪を勉強する――悪いことをしたら罰が与えられる――において『白雪姫』が教育的なのかもしれないが、白雪姫自身が道徳的か?というとそうでもない。

驚かされるのは素敵な家を見つけ森の動物たちと勝手に他人の家に入り、家が汚いからといった理由で勝手に家を掃除し、勝手に料理を作り、勝手に寝室に入り、挙句の果てに眠いから、勝手に寝室で寝てしまうといった行動である。宿確保のために、善行をこなしているつもりなのだろうが、実際には無許可で人の家に上がり込み、挙句の果てに家の中で勝手に生活してしまう常識外れの娘なのだ。ただ、こういった指摘を映画やアニメーションしても意味はないだろう。私自身そう思っている。では、何が言いたいかというと、例えば自分の子供に映画を見せる際にどのような基準で作品を選定するのか?また、『白雪姫』のようなわかりやすい勧善懲悪の作品において、勝手に人の家に上がり込んでしまうといった常識外れの行動をどのように考えているのか?「人はどこまで細部を見ているのか?」といったことだ。(飛躍しているだろうといった指摘はあるだろうが、個人のブログなので大目に見て頂きたい)

ひいては、蓮實重彦の「画面を見ていますか?」につながっていくのだが、正直言って答えを持ち合わせてはいない。おそらく、子供に見せるといった行為は、教育的であり道徳的な意味合いからよりも、まず、面白い作品を子供に見せたい…といった欲求が第一にある。自分が面白いと思ったものは人に勧めたい――特に自分の子供であればなおさらそう思う人が多い。そして、次に子供の年齢を考えて、対象となる作品を子供に見せてもいいのか?と考えるだろう。そのような場合、特に相手が子供であれば、誰が見ても一目瞭然でわかりやすい物語であることが優先される。こういった手続きを踏んでから見せるといった行動をとるだろう。

自分がそうであったように細部を忘れてしまっていることもある。昔見てよかった映画を説明するときに、細部まで細かく説明するよりも相手に伝わりやすいように要約して説明することが多い。自分ではポイントを押さえて説明しているつもりでも――人に説明する方法などの技術は上がっても――その対象から徐々に遠ざかってしまうことがある。説明しやすいように人間は記憶を整理したり、時には本人も気づかない間に捏造しまう可能性があるだ。別にそれが悪いといったわけではない、そのような手続きを行うことでなくしてしまうものも確かにあるのではないか?と思うのである。

何やら結論もなく長々と垂れ流して書いてみたが、こういった表面上の教育的・道徳的なことがらよりも、母親が亡くなったと理解したバンビと老鹿の切り返しショットや、白雪姫が毒りんごを食べ倒れるくだりで、リンゴを食べるショット(クローズアップ)を挟まずに、身体の一部だけ写し「倒れた」と表現する上品な演出。また、『ダンボ』における上昇下降や夢のシーンなど、画面から直接的に伝わる感動を忘れてはならないと思う。画面は雄弁に物事を語ってくるのである。

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