10年ぶりくらいに見た『ガメラ3 邪神覚醒』が傑作過ぎて…

今年の『GODZILLA』公開に伴い、昭和・平成ゴジラを観直さなきゃなーと思ってたんだけど、何故か「平成ガメラシリーズ」を観直していたら止まらなくなってしまい一日でガメラ3 邪神覚醒までイッキミしてしまった。もう10年くらい見てなかったんだけど、これが傑作過ぎて痺れた。

人類が大気汚染を引き起こしたり、原発問題など人類以外にも地球規模で被害が危ぶまれると、KAIJU(パシリム風)が現れ人々を襲うってのは、ガメラは勿論のこと「平成ゴジラシリーズ」もそうだった。というか、怪獣映画には切っても切り離せない題材となっており、「平成ガメラシリーズ」もそんなお話である。元々、監督の金子修介は、「平成ゴジラシリーズ」を熱望していたらしいが、それは叶わなく「平成ガメラシリーズ」を背負ってたったわけなので「平成ゴジラシリーズ」とも似ているのも当然だった。

個人的な思い入れで言えば圧倒的にゴジラなんだけど、平成だけで考えれば作品のクオリティはガメラの方が上だと思っていて、内容もそうだけど、怪獣造形が美しいのもあるし、(でもバトラの変身シーンは映画史に残る変身シーンだと思っているけど)特技は樋口真嗣が関わっていることもあり、ガメラとイリスの空中戦は怪獣映画史に残る名戦だった。

それと、個人的に平成ゴジラとだぶるのが、「ガメラ3」でガメラが最初にギャオスを撃退する渋谷のシーン。あんなに絶望的なシーンは「平成ゴジラシリーズ」で撮れていなかったと思うけど、渋谷や京都が火の海になって、それをガメラにオーバーラップして撮るところとかは、ゴジラが負けそうになるデストロイア戦の絶望感に繋がるし、ボロボロになるガメラデストロイア戦とダブってしまう。

それでいて、「ガメラ3」は特撮の他に目指したことがすごかった。先日、『アクト・オブ・キリング』を見たばかりなので、視点は違うが、この映画が選んだ方法も同じようなベクトルにあって、「誰からみた正義か?」ということだった思う。

この映画は、冒頭に前作までの映像をモノクロでフラッシュバックさせ、人々のガメラの記憶を振り返る。ここでガメラは全人類のヒーローだったかと言うとそうではない。ある人から見れば家族を殺した悪魔的な存在に成り代わってしまうのである。その後に、渋谷での大空襲シーン。ガメラから見れば、ギャオスを撃退している行為に過ぎないが、そこにいる人にとってはガメラが「恐怖」の象徴として一生記憶に植え付けられるのである。

そもそも昭和ゴジラの一作目はゴジラが「恐怖」や人類の「脅威」の象徴であった。もっと言えば、その前にレイ・ハリーハウゼンの『原子怪獣現れる』があって、それがいつしか怪獣同士の戦いとなり、怪獣はヒーローのように描かれた。そして僕みたいな単純な小学生が「カイジュウかっけ〜!!」と持ち上げたのである。しかし、金子修介は原点回帰をめざしもう一度、怪獣は「恐怖」の象徴だと認識させたのである。これは『ゴジラVSデストロイア』でも使われた原点回帰の方法であり、「メルトダウン」ギリギリのゴジラを『ゴジラ』(54年)で芹沢博士が命をかけて「オキシジェンデストロイヤー」でゴジラを殺した方法を「デストロイア」という怪獣に置き換えたのである。金子修介は、怪獣映画の原点回帰を目指しながら、時に正義は自分の立場やそれが起こる場所によって、正義にも悪意にも変化することであると教訓付けた。

そしてその正義や悪意の変化は「ガメラ3」の最後に描かれており、ガメラはイリスに取り込まれた少女を助け、ギャオスの群れに立ち向かっていくのである。ガメラは自らの命を危険にさらしながら一人の人間を救った。渋谷の一件も事実であり、少女も助けたことも事実である。『アクト・オブ・キリング』が大虐殺者がヒーローであるというレイヤー構造であったように、ガメラも大虐殺者であり、ヒーローでもあった。

GODZILLA』公開前に平成怪獣シリーズを彩った傑作映画をもう一度、みなさんもぜひぜひ。

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