さいきんのSF 『楽園追放』と『インターステラー』

確か押井守が『勝つために戦え!』でエメリッヒは「SFは絵だ」ってわかっている人でバーホーベンは「ただ肉弾映画撮りたいだけだ」っていうことを言っていた。”SF映画=絵”たぶん「ブレラン」撮ったリドリースコットなんかはレイアウト決まりまくっているし、絵が撮れる人なんだろな〜。デパルマも『ミッション・トゥ・マーズ』ってのがあったけど、あんまり覚えてねえな…イーストウッド『スペース・カウボーイ』これは好きだな。ラストとかホント好き…とか普段SF映画撮らない人がSF撮ってと回想しているうちに『インターステラー』の公開日。

勝つために戦え!〈監督ゼッキョー篇〉

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なんでこんなSF回想しているかと言うと、この前『楽園追放』っていう虚淵玄(脚本)の3CGアニメ映画を見ていて、これがわりと面白くてSFって何なんだろな?と考えていたからに至る。


どちらも軽くネタバレ含みます。


『楽園追放』と『インターステラー』じゃ全く違うSF映画だった。

虚淵玄はオマージュが大好きだから、『楽園追放』はオマージュだらけになると思いきやオマージュといより、SFの基礎をゴトゴト煮詰めて3CGでデーハーに仕上げた作品だった。それに対して『インターステラー』はノーランにしてはジャンル映画っぽいことしているんだけど、終着点はいつも通り。SFをやるっていうより、SFを使ってヒューマンやってますよ〜っという感じ。

ストーリーで比較してみると大前提が少し似ていて、どちらも”人類が地球に住みづらくなってしまった世界”。『楽園追放』は宇宙にステーションつくってそこで電脳化することで半永久的に生きることに成功した。対して『インターステラー』は、ワームホールから違う宇宙(世界)に行って新たな永住地を探すたびに出る。後者はキューブリックの『2001年宇宙の旅』が前提にあって、SFというより土台がSFという感じ。多分、楽しんでSFやっているのは前者。『楽園追放』の追求は「自由」だけど、電脳化された世界が本当に自由なのか?という皮肉が含まれていて、「どの場所で何をするか?」というより、「自分が何をするか」ってのがテーマになっていたと思う。選択の映画だなあ。

2001年宇宙の旅 [Blu-ray]

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少し似ているのが、『楽園追放』でも『インターステラー』のように外宇宙探索をしようとする人がいること。ただ、『インターステラー』のように絶望的ではないし、どちらかというとポジティブなニュアンス。結局、世界の見え方は自分次第だし、地球で生きて行くって選択になるのが『楽園追放』。ジャンル映画として最後までジャンル映画でいることを選択した映画だったと思う。

じゃあ、ノーランがSF撮れていない?というと違う。グルグルと宇宙船が回転したり、『トップをねらえ!』やフォロワーの『ほしのこえ』のような時間軸のズレをストーリーに絡めたり、やることはやっている。あと、『オブリビオン』みたいな無機質な星だったり、ジャンル映画は捨てきっていない。んで、重要なのはグルグルと回転するってのがこの映画のミソだなと思った。結局もと居た場所にグルグル帰還してくる。どんなに遠回りしても、世界はまわり続けている、存続しているってことを伝えたかったのかな〜と思った。

トップをねらえ! Blu-ray Box

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どちらも面白かったですね。ただ、『楽園追放』の最初の電脳戦はあまり惹き付けられなかったし、『インターステラー』はやっぱり長過ぎる。面白い映像はあったけど、アクションとカットに惹かれるものは少なかったかもしれない。あー「ブレラン」見ようかな。おわり