果たして”天使”を見ることができるのか?『キャロル』感想

「向かい合っている2人の視線は撮れない」といった言葉がある。2人の視線を撮るには主観ではなく一歩引いて第三者的な視点で撮るしかない。恋人や夫婦がいかに愛し合っていたとしても、血が交わっていないように視線の交わりもないのである。なんて皮肉なんだろうか。しかし映画では視線が交わっていると仮定して様々な手法を開発してきた。まず正面切り返しなる手法があるけれど、奇妙な雰囲気になるのでメロドラマには向かない。*1だからよく見るのは対象人物を少し斜めに肩越しに撮る切り返しショット。同一画面で視線は交わらないが、切り替えるタイミングを工夫したりすればあたかも2つの画面が繋がっているように見える手法。それだけにメロドラマでよく見られるわけだ。そんな切り返しショットは先日公開されたトッド・ヘインズの『キャロル』でも度々見られた。

「My angel, flung out of space…(空から降りてきた私の天使…)」

こちらは『キャロル』のケイトブランシェットがルーニーマーラを脱がしたときに思わず口から漏らした台詞である。ルーニーマーラといえば『ドラゴンタトゥーの女』で強烈なレイプシーンがあったが、『キャロル』のルーニーマーラは白く美しい裸体を晒しながら甘いSEXをする。キャロルにとってルーニーは言葉にもあるように思わず”天使”といってしまうような美貌をもっているが、果たして人間が”天使”を直視することができるのであろうか。まずケイト(キャロル)はそのシーンで”天使”を発見した、と仮定しよう。ケイトがルーニーを脱がせ身体が混じり合う。SEXシーンは極めて第三者的な俯瞰が入り混じるショットで撮られるのが一般的であるが、『キャロル』では画面が2人の顔でいっぱいに満たされる。それは他人の”幸福”で圧迫感を感じるほど。それほど2人の距離は近しい関係なのである。だがこのシーンだけでは「天使を発見した」とは言い難い。では、それまでのシーンがどう撮られていたか?

トッド・ヘインズが選んだ手法は古典的なハリウッド映画で見られる切り返しショットだ。冒頭で書いたように、向かい合っている2人の視線はたとえ切り返しショットであろうと撮れない。視線が交わっていると仮定するだけだ。ここで「My angel, flung out of space…(空から降りてきた私の天使…)」の台詞に戻ると、”天使”という本来でなら見ることができない存在をSEXシーンまでは切り返しショットといった手法で、文字通り視線を合わせられなかった。それが初夜で文字通り初めて交わることができた。切り返しショットという縛りを通り越して、第三者的な視点を交えることでキャロルが”天使”を発見するシーンを(我々が)目撃した。性別や血のつながりを超えた”愛”に関する映画だといっていいだろう。

エデンより彼方に』で色調やカメラワークといいダグラス・サークのオマージュが変質的な域まで達していたが、今作でも意識下にはダグラス・サークがいる。冒頭の柵だったり、そこからカメラが大胆に動いていく仕草はダグラスサークの作品群にも見られる手法だ。『エデン〜』ではサークの『天はすべて許し給う』と同様に庭師との色恋を描いているが、『悲しみは空の彼方に』のように黒人と白人の色恋もあり二重性を孕んだ作品だった。またサブストーリー的に夫が同性愛者であったり、ダグラス・サーク総決算を現代に甦らせた、といったような位置付けだったろう。そんなこだわりを見せた作品だったが、今回の『キャロル』はそこまではいかず自分の作品であろうとしていたように感じられる。それらが特に感じられるのは、原作でも印象的に表現されている以下のシーンじゃないかと思う。

1.「オモチャ売り場での出会い」
2.「見つめ合う2人のSEXシーン」
3.「テレーズがキャロルを探しにいくラストシーン*2

映画の構成で考えてもハリウッドの三幕構成的な発端〜中盤〜結末にそれぞれそれらのシーンはある。今回もちろんダグラス・サークといった存在は意識されているが、それ以上に古典的なメロドラマに忠実で少しだけサークから離れていると感じた。その古典さの手法はやはり冒頭に触れたように丁寧な切り返しショットがメイン。最初にランチを食べた際のケイトとルーニーがお互いに確認するようにチラチラし合う2人の切り返しショットは、そのまま彼女らの演技に担保されているのではないかと感じるほど彼女らの演技が素晴らしい。彼女らの魅力でこの映画は満たされているといってもいいかもしれない。

ただルーニーとケイトの2人の描写をメインにし過ぎるのではないだろうか?トッド・ヘインズ自身が同性愛者ってことも公言されているが、『キャロル』では彼女らの「同性愛」が障害となりキャロル(ケイト)は子供を奪われるといった結末を迎える。キャロルと夫との子供を巡った夫婦間トラブルや旅行先で夫がよこした探偵とのトラブル…『キャロル』では同性愛を発端に様々な障害に阻まれる。しかし、トッド・ヘインズはドラマに対応する障害が妙に都合のいいというか、脚本に忠実で段取り的に進めているのではないかと思えてしまった。ここからは印象的な話になるけれど、たとえばルーニーとケイトが切り返しショットでの「視線劇」(障害)を飛び越えたシーンのあと、探偵に壁を通り越して盗聴をされている事実が判明するシーンがあった。いい演出だと言ってしまえばそれまでだけど、もう少し後を引くようなシーンになりえるのになんだか妙に蚊帳の外から見させられた感覚が残ってしまった。ケイトの夫(ハージ)やその子供、そしてアビー(キャロルの友人)、リチャード(テレーズの恋人)にしても、物語を動かすために重要な脇役がいるはずなのに、物語に介入してこない。蚊帳の外からただ2人を見ているだけのように、何にも固執もしなければ執着心もなく、障害(ノイズ)として画面に反映されない。テレーズの夢がカメラマンに改変されているのは、こういったテレーズのキャロルしか見ない(フレームの外)態度をやたらと強調させた結果だったからなのであろうか。それが脇役さえもショット内(映画)に収まらなくなってしまったら本末転倒ではなかろうか。だからこの映画に”美しい”という印象は残ってもどうしてもそれだけで、「面白くなかった」のが本音である。音楽でも常日頃感じるのだけど、美しいものにはもっと悪意や破壊が必要だ。トッド・ヘインズには『ケミカル・シンドローム』(原題:SAFE)のように最後まで冷たく突き放し、たとえ破綻していたとしてもその人生を肯定したくなるような映画を撮ってほしい。『キャロル』悪いとは言わないが根本的なところでつまずいてしまった映画だった。*3

◼キャロル関連評
http://d.hatena.ne.jp/the_tramp/20160211/1455201824
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女性同士の恋愛と自立を描く『キャロル』の、“赤色”に込められた深い意味|Real Sound|リアルサウンド 映画部

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黒沢清の映画術

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*1:黒沢清の『岸辺の旅』深津絵里蒼井優の正面切り返しの怖さは記憶に新しい

*2:まるで初めて出会ったかのような”もう一度”出会うシーン

*3:ちなみに公言しておくと『エデンより彼方に』についてもあまり好きではない。