「重み」と「軽さ」の果てに/アンドリュー・ニコル『ドローン・オブ・ウォー』

大抵の人は朝起きて満員電車に揺られ出勤し、夜になったら帰宅するという日々が何十年も繰り返される。「冗談交じりに懲役40年か…」と、落ち込む新社会人たちがいるが、大抵は沈んだり高揚したりしながら何とか生計を立てている。時には身体の不調や精神を病んでしまうことがあるだろう。しかし救いどころがない問題でない限り、大事に至ることはない。それは私たちが体験していることが、私たちに適用できる範囲の問題だからだと思う。毎日ルーティンを繰り返すのだけの、意味があるのかないのかわからないといったような「軽さ」を感じていても、かろうじて人は生きていける。ただこれは適用できる範囲の普遍的な日常生活に限ってである。状況が違えばそうはいかない。
いきなり話が飛躍するが、なんでもイラク戦争から帰還しPTSDで苦しむ兵士は数万人もいるといわれている。戦場に派遣され、自分が殺されかねない死と隣り合わせ中で合法的な「殺人」を繰り返す。今年イーストウッドの『アメリカン・スナイパー』でも描かれたクリス・カイルは「ラマディの悪魔」と恐れられたようだが、彼自身も戦争で心を病んでいた。敵国に恐れられる超人であっても極限の中での緊張感「重み」に精神が押しつぶされてしまうのではないか。
しかしそんなアメリカには人を戦場に送り込まなくても「殺人」が実行できる兵器を持っていた。それが「ドローン」による攻撃である。アンドリュー・ニコル監督のドローン・オブ・ウォー』(原題:『Good Kill』)では、『アメリカン・スナイパー』のように戦争の「重み」で苦悩する兵士たちといった物語とは違い、ドローンによって得られた反動(リスク)のない「軽い」殺人に苦悩する軍人が描かれる。

主人公(イーサンホーク)は元戦闘機乗りだが、今はロサンゼルス郊外のコンテナの中でドローンを操作し何万キロ先の目標に向かってミサイルを投下する軍人である。彼の生活は環境だけでいえば一般的なサラリーマンの仕事と大差はなく、毎朝起きて仕事場に出勤し、パソコンの画面とにらめっこして仕事が終われば帰宅する。たまには息抜きにラスベガスで遊んだりと、新橋の居酒屋で呑んだくれているサラリーマンの生活となんら変わりはない。
しかし彼はこの生活に適用できない人物なのだ。戦地に派遣されていた頃を忘れられず、危険な空を求めている。コンテナで引き金を引く彼の顔は、戦場で目標を狙ったスナイパーかのような真剣な眼差しである。なぜならば彼の意識(魂)は戦場の3000m上空にあり、そこに呪縛され続けているからだ。当然彼はそのリスクによって得られる「重み」を背負い込みたいのに、画面に映し出される情報と反動(リスク)がない引き金の「軽さ」に苦悩する。いくら不確かな情報でも、命令「理由があれば殺してもいい」といった正義の名の下に殺人を続けなければならない。彼は次第に耐えられなくなり、ノイローゼのような状態になってしまう。
これまでアンドリュー・ニコルの根底として「空(自由)へ」の憧れを作品に反映させてきたが、初期の傑作『ガタカ』のようにただひたすら彼岸を求める一種の美しさ(儚さ)は、『ドローン・オブ・ウォー』にはない。彼は「空(自由)」に呪縛されてしまった存在であり、人の「重み」を背負う『ガタカ』にはならず、ただただ「軽さ(空虚さ)」を残すのだ。

果たしてこういった苦悩はいつまで続くのだろうか。「テロ対策」正義の名の下に自国を守るため殺人を続けていく。「やられる前にやる」目の前のリスク回避という意味であれば理想的な理念であるが、10年、20年…と長い目で見たときにどうなっていくのだろうか。「他人とは理解しあえない」人は“百人百様”で同じ性格などあり得ない…と、考えていくと救いようのない世界に感じる。ただ実際に世界のすべての人が同じ考えになるなんてあり得ないだろう。
ドローン・オブ・ウォー』は日常生活の「軽さ」と戦争の「重さ」を、ドローンによる殺人(「人の死の重さ/反動のない殺人の軽さ」)に見立てているが、さらに「正義のための殺人とは?」と、追い討ちをかけてくる。我々はそんな問いに対して外野にいるものだと思い、客観的に考え最もらしい回答を出すが、トミー(イーサン・ホーク)のベッドの上に十字架が飾ってあったように、俯瞰し続けた我々もまた誰かに見られているのである。

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