映画の「物語」と「世界一かわいいよ」について

「物語から脱却する」

映画を鑑賞する上で「物語」というものはどの程度必要になってくるのだろうか。一般的な認識としてはおそらく、アクション映画よりもヒューマンドラマと言われるものについて「物語がしっかりしていないとダメ」と思われているのだろう。私が参考にさせて頂いている映画感想や批評を書かれている人たちは、物語だけに言及せず、映画を構成する様々なものに言及している。それらを見ていくと「物語」というものが、個人の「好き/嫌い」の嗜好に左右されやすいもので、見る上で絶対的な指標にはならないということだ。
だからと言って不必要と切り捨ててしまうものでもない。「物語」は映画を構成する一つの要素であり、目には見えないが作品を構成する「土台」や「世界」のようなものだ。

−物語とは?−
・物語は映画を構成する「土台」や「世界」である。
・物語は目に見ることはできない。
・その物語を積み立てて見えないけど見えるようにするが演出。*1

冒頭に「物語から脱却する」と書きましたが、正確には脱却するというよりも「物語的におかしい」といった文句というものは曖昧な指摘なので、画面の情報で映画を見ていきたいなという考え。「蓮實重彦の『表層批評』じゃねえ?」とか思うでしょうが、あくまで「物語」によって映画の優劣が決まるのが嫌なので、なるべく映画でしかないもの「映画っぽいもの」で映画を見ていきたいなという考えからです。(少なからず蓮實重彦の影響は受けていますが)
それと映画が「物語」を有効的に使っていることを理解することで、映画がグッと面白くなります。例えば今年公開されたダルデンヌ兄弟の『サンドラの週末』という映画。この作品では「構図」を有効活用し見えるはずのない物語を見えるように演出しています。

体調が思わしくなく休職していたサンドラ(マリオン・コティヤール)は、復帰のめどが立った矢先の金曜日、ボーナス支給のため一人のクビを切らなくてはならないと解雇を通告される。ところが、同僚の計らいで週明けに職員たちが投票を行い、サンドラのためボーナス返上を受け入れる者が半分以上になればクビを回避できるという。その週末、月曜日の投票に向けサンドラは同僚たちの説得するため奔走するが……。(yahoo映画より)

予告で「感動した」とか「マリオンコティヤールの演技が…」とテロップで流れますが、そこには触れません。この動画だとわかりづらいと思いますが、この映画はコティヤールが職場に復帰できるか?できないか?という結果よりも、同僚たちとのコミュニケーションで彼女がどのような葛藤をするのか、に焦点が当てられていると思います。
同僚たちはそれぞれの理由があって彼女の復帰に「賛成/反対」を表明する。この映画を見ると、いかに人は共感しても他者と同じ立場になることは難しいと感じる。ダルデンヌ兄弟はそういったことを際立てさせるため、彼女と同僚との間には「断絶の構図」が入るようにします。

この同僚はコティヤールに賛同するのですが、同僚との間には「断絶(光と影)の構図」がある。彼女はコティヤールを応援してあげたいのだが、彼女の夫が経済的な面で反対している、といった懸案を抱えているのです。この画面で彼女は家側(影)に入っていることで、家(家庭)がネックになっていることを表現している。他のキャプチャがないので詳しくは書きませんがそれ以外にも、机、扉、柱、柵、ドア、子供…といったように二人を隔てる「断絶の構図」で、彼女の復帰には障害があることを演出している。

「物語」から脱却して演出から映画を読み解く、の一例。物語は必要だけど、あくまでもそれをどうやって見せていくのかが映画に要求されていると思う。なので普段から、この構図は何を意味しているのか?とか、人がどちらを向いているか、ドアは何回開かれるのか、なんて考えながら見ていくと嫌でも集中するのでいいと思います。カット数を数えるのもいいかもしれませんね。
また物語の好みで映画を見ることをやめることで、「こんな都合の良い話あり得るわけないじゃん」と、”私たちの生きる現実の法則に沿って批判する”といったことにストップがかけられると思う。まあ、その感想も間違っちゃいないのですが。映画はそもそも人が作った嘘なので、現実の尺度で考えすぎてはいけないと思うのです。

少し脱線しますが、こういった感覚は女性アーティストのLIVEに行ったときの気持ちを例にとってみるとわかりやすい。(…のか?)いわば「世界一かわいいよ」現象でしょうか。

これは元ネタ云々よりも、実際にこういったイベントに行かれる方はわかってもらえると思うのですが、例えばあなたに「世界一かわいい!(綺麗だ!)大好きだ!」って思っている嫁さんや彼女が居たとします。あなたは一人で女性アーティストのLIVEに行ったときアーティストに向かって「世界一かわいい!」って思う瞬間はないでしょうか。果たして好きな人がいるのに、矛盾した感情なのでしょうか?決してそうではないと思うのです。こんなこと言っていたら怒られてしまうかもしれませんが、その時に感じたものは嘘偽りはないはずです。彼女の曲、舞台、演出、スタッフ陣…と、様々な要素で作られた世界での”思い”なのです。だから前日「世界一かわいいよ!」と言いながらも、別日に隣国…のLIVEで「世界一かわいいよ!」と言ってもいいのです。間違っていない!大いに言おうze…(趣旨が変わってきたのでこのくだりはやめます)

脱線しましたが要は、映画の中(世界)の規則で見ていったほうがいいだろう、といった話です。長々と映画はこう見たほうがいいとか適当なことをいっていますが、こんな見方だけでは広がりがないのではないのか?、ただそうやって法則で作られた映画が好きなだけではないか?と、考え込んでしまうことがあります。すべて「演出」で表現出来ると”思い込んでいる”鑑賞方法でしかない。特に先にあげた『サンドラの週末』はわかりやすいだけなのかもしれない。大まかに見ていて誤魔化しているところは沢山あります。

先日『黒衣の刺客』(「情動」が風景と同調する/侯孝賢『黒衣の刺客』感想 - つぶやきの延長線上)を鑑賞し、スー・チー(刺客)の苦悩から「風の映画だ」とか書いたのですが、感想レベルで一番最初に浮かんだのが「色彩が綺麗だな」ということでした。私はそのことに関して、侯孝賢は従来連想される武侠映画と真逆の演出をしているが、胡金銓の『大酔侠』でも「赤」がたくさん使われていて…と、周りの情報で固めることで「赤」が色彩としてどのような効果を得るのかは触れませんでした。
私はカラーコーディネーターでもないし、色彩にまつわる基礎知識ですら勉強したことがない。だからこの映画の「色彩が〜〜だから綺麗です。」とマクロ的なことは語れない。ただ作品内で強調される「赤」は、血縁関係(というと言い過ぎですが広い定義で「家族」)や、スー・チーが暗殺者(血(の色)が流れる)という意味を表現しているのかな?と、なんとなく思える程度です。

こういったように映画を見ているようで上っ面しか捉えていないな?とか、思うわけですね。まあ、悩んでいるのもくだらないといったらくだらないし、最終的に堂々巡りに陥ってくるのでやり過ぎも如何なものかと。ただ、もっともっと映画たくさん見ないなとな、と…。こんなこともあと数十年続けていれば何か見えてくるんでしょうか…

以上、つぶやきに収まりきらない駄文の塊でした。

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*1:「演出」はショット、構図、カメラワーク、照明、音楽、編集、テーマ、モチーフ、役者の演技…を使うことで強調される