趣向は違えど「終わり」を描いた二つの新人監督作品『ロスト・リバー』と『息を殺して』

先日、ライアン・ゴズリングロスト・リバー東藝(院)2014年作品集から五十嵐耕平の『息を殺して』(DVD)を鑑賞した。『ロスト・リバー』はニコラス・ウィンディング・レフンの『ドライヴ』クルーで撮られた作品らしい。レフン監督のように色彩や演出が奇妙(匂わせる)な作品。逆に『息を殺して』は過度な演出は控えて、撮影もフィックスを主体としている。趣向の違う二つの映画であるが、どちらも囚われたものが、何かから抜け出すことを描いている。そして同時に「終わり」を物語った映画だった。

ロスト・リバー』は、ある荒れ果てた田舎の街が舞台となっており、そこでは家が取り壊されたり燃やされたり、廃墟が大半をしめ、少しディストピアっぽい雰囲気がある。主人公の家族は、家賃を払えなくなって怪しい仕事につく母親、息子は廃墟から銅を集め小銭を稼ぐ、と彼らはギリギリに生きている。そんなとき、街の支配者に無断で銅を取っているところを見つかり息子は命を狙われることになる。この映画は、色彩が過度であったり、怪しい館、沈められた「湖底の街」と奇妙な装飾によってアンバランスさを演出している。でも実は、物語の冒頭で、近所のおじいさんが街から出るとき、イアン・デ・カーステッカーに「お前も早く出るんだ」と言うように、物語は「街から出る」だけである。この街以外の描写がないので、外には世界はないのじゃないだろうか、実は『サイレントヒル』のような場所なのではないだろうか?と様々な妄想をしてしまう。この奇妙さは少し文学っぽいですかね。勝手な印象だけど。

そして最後。息子と母親は街の支配者を殺して街から出る(呪いを解く)ことに成功する。やはり『ドライヴ』クルーだったことからも、少なからずレフン監督の影響があるのかもしれない。しかし、執拗に燃えていく家(燃えた自転車も横切る)は彼自身何かしらのこだわりがあるのだろうと感じたし、すごく良かったのはシアーシャ・ローナンが出てくるシーン。夜のデートシーン、街の支配者とのやり取りのスリリングさ、ドライブシーンの美しさ、どのシーンも彼女を魅力的に撮っていて素晴らしかった。今後も追いたくなる監督ですね。

そして、もうひとつの作品『息を殺して』について触れる。こちらは、2014年度東京藝術大学大学院の映像研究家映画先行第八期生の修士作品集のひとつの作品であり、東京ではスクリーン上映されている。発売されてすぐ買ったんだけど、放置しっぱなしでした。スクリーンにかかったし、そろそろ見るかな…ということで鑑賞。

『息を殺して』は先に書いたように『ロスト・リバー』と趣向は違えど、物語は似たようなもので「抜け出す」や「終わり」のことについて描いた映画だったと思う。舞台設定は、2017年の年末のゴミ処理工場。そこに勤める数人の従業員たちの12月30日から年明けまでの記録である。年の瀬の工場に一匹の犬が迷い込んでくる。その犬に導かれるように、従業員たちは仕事もないのに残業してゲームをしたり、工場にとどまり続けてしまう。彼らは工場から出て行かないというよりも、”出ていけない”といったほうが正しいかもしれない。それは彼らが、不倫、家族、戦争で死んだ友達のことなど、何かしら心に抱え込んでいるものがある存在だからだ。また、その工場は彼岸と此岸の合間のような世界で、彼らの他に死者も徘徊している。非常に危うい世界である。途中でサバイバルゲームをしている様子からも、もしかしたら既に死んいるのかもしれないし、世界そのものがなくなっているのかもしれない。と勘ぐってしまうような雰囲気も感じる。


『息を殺して』の犬と『ストーカー』の犬*1

年末、行くあてもない様々な情念、死者の徘徊、の全てが「終わり」を示しているように、年が明け彼らは工場から帰っていく。それまでフィックス(一部クローズアップあり)で動かない世界を表現していたが、ラストは長回し+移動と世界が”動き出した”ことを印象的に描いているなと感じた。奇妙な映画でハマる人はハマりそうですね。少しクセになる。

この二つの作品は手法はまったく違えど、どちらも「終わり」を描いた作品だった。どちらも長編一本目になるのかな?(五十嵐監督スクリーンでかかったので一本と数えていいだろうか)そういった意味でも似たようなテーマだったことは興味深い。今回は新人監督の一本目が二つとも奇妙な映画だったので少し書いてみました。東藝のやつ他も見ないとなー。

*1:Twitter上で監督の話を生で伺った方に頂きましたが、タルコフスキー関連性は「作品造りには関係ありません」と答えていたようです。それも面白くて、もしかしたらどこか記憶で結びついたのかな…とか思うので、今後も新作はみていきたいですね