『テラスハウス クロージング・ドア』実況を失って得た虚構について

昨年までフジテレビ系で放送されていた『テラスハウス』。2月にテレビ版の陸続きとなる映画が公開された。僕はTV放送時代に何回か拝見していて、友人と「テラハ実況しようぜ!」とまるでニチアサを実況するようにtweetしていたのが記憶に新しい。

テラスハウス』というものを知らない人に簡単に説明すると、これもフジテレビ系で放送されていた『あいのり』(1999年〜2009年)の引きこもり版と言うと適切だろうか。『あいのり』が真実の愛を求めに世界に羽ばたいたのと違って、『テラスハウス』は今「シェアする」ことが盛んに謳われるなか、出会い・夢を求め若い男女が一つ屋根の下で生活するといったもの。

彼ら・彼女らには「テラスハウス」という場所的な拘束があるものの、普段は他の仕事や学校に通っていたりして、テラスハウス以外にも「外の世界」が存在している。TV時代には、彼らは自分たちが生活する光景がTV放送によって鑑賞することができ、男女の気持ちをTV放送通して知る演出がされた。さらには、この中でも一番テラスハウスに住んでいる菅谷哲也(てっちゃん)は、俳優志望なので、テラスハウスに住みながらもドラマに出演し、そのドラマをテラスハウスで鑑賞することになる。彼は客観的に自分の演技を見るし、一緒に住むメンバーもTVを見ながら彼を批評する。それ以外にもテラスハウスにはもう一つの場所があり、スタジオ側の芸能人たちがてっちゃんを批評するメンバーを批評する。そして、僕たちのような視聴者がTwitterで批評(実況)することで、幾つもの視線が入り混じる。

しかし、『テラスハウス クロージング・ドア』は映画である。TV放送と違って我々の批評(実況)が消失することになる。そういった分シンプルな構造になったか?というとそれは違い、まず初めに考えなければならないのは、「ヤラセ」と「リアル」の関係だろう。僕なんかが語るよか他に、下記リンク先のブログにそれを語る素晴らしい批評があるので、それよりもTV時代に少なからず『テラスハウス』を見ていた者としてこういった関係について考えていこうと思う。

http://d.hatena.ne.jp/the_tramp/20150404/1428131443

◼︎映画化について
テラスハウス』が映画になって良かったことは、観客が求めるリアル(台本のない設定)が、全ては演出だと割り切りやすいことじゃないだろうか。そもそもTV時代であっても、ヤラセと騒ぐ前に「TVだから」と割り切るのが普通である。SNSが普及した現代では、TV番組をTLで実況するのが一般化されている。実況するということは、ほぼ脊髄反射といっていい。無理と思う演出があれば「これはおかしい」と書き込んだり端的な感想を述べる。映画化することで、そういった実況を失い、他者の意見やTLのムードに感化されずに、映画を観終わってからSNSに書き込む(批評する)流れとなる。

◼︎TVと映画の違い?
さて、肝心の映画化にあたって『テラスハウス』はTV時代とどう変わったのだろうか?「実況」を失ったが、撮影方法(脚本はないが、設置されたカメラの前で演技する)やテラスハウスの住人の演技は、TV時代から引き継がれたものであり、何も変わっていない。強いて言うならTVとは違って、129分というランタイムで一つの物語を完結させているということだ。

ーここからネタバレありー

この映画は、テラスハウスのメンバーで一番長く住居しているマスコット・キャラ的な存在:菅谷哲也(てっちゃん)が外の世界へ旅発つことで完結する。タイトルは終わりを意味する『クロージング・ドア』であるが、物語的には、菅谷哲也が外の世界に出る『オープンザ・ドア』(ちょっと言いたかっただけ)までを描いている。番組がどう意図しているかは想像の域を出ませんが、彼はTV時代当初から映画化を視野に入れ、菅谷哲也を主役としたかったのではないか?と、思うほどのハマり役。TV放送時に何人かの女性に恋をしてきましたが、恋は実らずテラスハウスを出るまでに至っていない。

彼は映画でも一人の女性に恋をするが、結局、実らずにテラスハウスを出ることになる。ただ、その告白して振られるまでの演出方法がとてもうまく、テラスハウスの武器といってもいい「外の世界」という装置を有効活用する。例えば、

「芸能人の友達に聞いたんだけど、てっちゃんは女の人がいる店に行ったり、ギャル男とつるんでいたり…」

まるで中高生がする芸能人のあるあるネタだが、こういったように彼は彼女からの信頼を落とす。しかも、テラスハウス内の映像には収められずに、噂話としてテラスハウスの外の世界で聞いた話にする。見ている私たちにとっては映画『テラスハウス クロージング・ドア』で起こったことなので、もちろん演出として受けるべきなのであろうが、『テラスハウス』としてみると、上記の中高生のような噂話が、外に漏れてしまったことを少なからず考える。「実は本当だったら」「いや、多分演出だろう」と、どこまでが本当で、どこまでが嘘なのか?境界線を曖昧にすることで虚構が生まれるのである。

アッバス・キアロスタミの『クローズ・アップ』も虚構が生まれた映画だった。『クローズ・アップ』は、ある青年が「自分はイランの映画監督モフセン・マフマルバフである」と嘘をつき、ある一家を架空の映画制作に巻き込んでしまい、結果、最後には家族に訴えられてしまうという一部始終を写したドキュメンタリー映画だ。確かに、ドキュメンタリー映画であるが、事件までの一部始終を本人に演じさせたりして、フィクションとノンフィクションの間を彷徨う映画だ。『テラスハウス クロージング・ドア』は、リアルという設定を演じる事で生まれる虚構。主人公自身の「俳優になりたい」願望が、フィクションによって我々へ伝達される。彼の夢自身はノンフィクション、でも映画自身はフィクションであるといった矛盾が境界を曖昧にする。

そのフィクションーノンフィクションの関係性で面白かったシーンが、物語の最後、クリスマスに夜景の綺麗な場所で告白するシーン。告白までの彼は、外の世界での評判(キャバクラ的なところに行っている)や、彼女のファッションを見て気を回せないであったりと、彼女と釣り合わない、もしくは相応しくないように演出されていた。そして、問題のクリスマスデートでは、前回の失敗を踏まえ、彼には不釣り合いな気合いの入ったファッションで高層ビルで食事をしたりと、自分に相応しくない男を演じる。そもそも映画では、役者は演じる者であり、もちろん『テラスハウス クロージング・ドア』は映画でありフィクションである。間違いないくこのデートも演出されたものであるが、告白シーンでの観覧車の時計が妙に生々しい。演出と思いながらも、彼が告白してから返答をもらうまでおよそ2分であったことが、観覧車に付いている時計の存在で気づかされる。それに気づいたとき、妙に生々しく、映画はフィクションの筈だが、この2分は本当だったと僕は感じてしまった。

TV時代には「ヤラセ」ともてはやされた番組だったが、映画になり実況を失ったことで生まれた虚構。幾つものレイヤーが生まれ、フィクションにもノンフィクションにも見えてしまう面白い映画だったと思う。そして、告白の2分が本当であったかどうかはさておいて、「テラスハウス」で過ごした時間は「ヤラセ」や「リアル」の延長線上に存在する本当の時間だった。俳優を目指す菅谷哲也にとっては「テラスハウス」がフィクションであったとしても、ノンフィクション(夢)の舞台だったのだ。

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