『四月は君の嘘』–第17話「トワイライト」の演出について

今回は凪回といったところで、公生と対になるシーンが目立った。
まず、冒頭では公生がかをりのことで悩んでしまっているときに凪が彼を励ますシーン。(凪→公生への流れ)凪は公生を笑わせることに成功する。(ブランコに乗る:一緒の目線)ただ、この後のシーンをみると凪が下の方を見ていることがわかる。

ここからが凪の心情を深堀していくシーン。ピアノに向かって俯く・泣く。

眼鏡に涙を貯めていたいつかの公正と重なるシーンだ。

そして、瀬戸さんとのやりとり。これは過去の公生のシーンと強く結びつくが、Aパートの1カット目の公生のシーンとも重なる二重性をはらんだ演出である。彼女が俯せになる洗面所は、人の内面を描くことに優れた場所的な意味合いを持つ。

また、凪と公生の関係から少し脱線するが、凪の俯せになっている方向をみると、画面の左側にいることがわかる。公生が音が聴こえなくなったときに居た場所も画面の左側にあたる。基本的に、映画やアニメの映像作品群では、上手(画面右側)に上位、下手(画面左側)に下位といったような意味があり、『君嘘』でも、キャラの心情が揺れているときは、その原則に沿った演出がされている。17話で印象的だったのが、1カット目のかをりとのシーン。

かをりが上手、公生が下手が配置されていることがわかる。しかしながら、かをりは上手にいながらも顔に影がかかっているように、万全な状態ではない。もしかしたら、いつか居なくなってしまうといった演出か?

それと、渡とのシーン。このシーンでもやはり画面の左側に配置されており、画面が引いてロングになっても公生は影に隠れている。

この後、かをりに会いにいけといわれ、かをりとのシーンになる。

このシーンでは、窓に反射した公生が画面の上手にいる。ただ、窓の反射を利用しているので、優位な場所とは一概には言い切れない。だから、次のカットでは下手にいる。また面白いのは、このシーン引いて撮っているからか、17話冒頭では、公生とかをりがの目線が一緒だったにもかかわらず、このシーンでは公生が、高い位置にいることがわかる。冒頭の影の演出もそうだが、こういった細かい画面設計がうまい作品だと思う。

凪と公生との関係性に戻ると、ラストの「手の震え」。凪は美少女ピアニストとして業界からの注目も高いし、同級生からの視線も突き刺さる。公生がヒューマンメトロノームと呼ばれていたように、ものすごいプレッシャーが彼女にかかっていることがわかる。そして、公生が手を握ってあげることで、彼も「緊張していたんだ(一緒だった)。」と理解するのだ。(公生→凪への流れ)互いに与える、与えられるという関係が二人を結びつけ、一緒に舞台へ歩んでいく。考えてみると、凪と一緒にブランコを座ったときから、こういった演出の伏線だったのかもしれない。(一緒の目線になること)

17話カット毎の繋がりが多く、感動回でありながら、しっかりと画面に目を向ける必要があるなと感じさせる。

このシーケンス毎の繋ぎも上段は、音とインパクトの繋がり、映像的快楽、ダイナミズムを感じさせる上から下への運動。下段は、耳を塞ぐ(音が聴こえなくなれば…)から、音楽室への繋ぎ、(この後、倒れ込む)とシークエンスの繋ぎにも凝っていて見応えあるシーンの連続だった。

映像の原則 改訂版 (キネマ旬報ムック)

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