映画が見たけりゃバットで殴れ!『味園ユニバース』

小さい頃からバンドに憧れていたにもかかわらず、受け手の気持ち良さを知ってしまい、いつだったか僕は、「生涯オーディエンス宣言‼︎」を掲げ、気づいたらLIVEハウスを駆け回る生活をしていた。バンドのマーチを大量に買い込み、終電まで走る。そんな中、駆け抜けた街は、普段は気付かないけれど、びっくりするくらい魅力的に見えて、電車に乗るのが億劫になったことも多々あった。

ところで「生涯オーディエンス宣言‼︎」のもっともらしい理由を考えると、「趣味は仕事にするか否か」が最もらしい理由だろうか。要は、音楽でも映画でもアニメでもなんでもいいが、誰しも始めは、受け手として存在する。好きなモノを、ずっと見ていることは、創作する側に比べて非常に楽なことだ。僕の場合は、「音楽」だった。高校生の頃ギターを買って、憧れたアーティストのコピーをしてみるが、自分の腕に全く納得できない。そもそも練習する気もほとんどなかった。努力することから、逃げていたのだろう。だから、すぐ「かっこいい、面白い」に結びつく、オーディエンスであることに落ち着いた。

ただ、オーディエンスであることも、最近では簡単ではないなと感じる。こうやってブログを書いていても思うけど、自分で言った(書いた)ことはある程度「責任」を持たなければならないし、わかりやすく書かなくてはならない。映画を語るなら、自分語りなんてしてはならない(今回のエントリーは非常に逸脱している)。そんなオーディエンスであることを選び続けた僕は、憧れた夢にどうやってしがみついていくか、そんな人たちを見ているのが大好きだ。

味園ユニバース』で、主人公のポチ男(渋谷すばる)は、光と闇を背負った人物である。彼はまず闇を背負っているように、カメラは刑務所を出る彼を後方から追い続ける。やっと出たシャバでは、外の空気を吸うも間もないころに、闇から逃れられずに、路上に投げ捨てられ、バットで上から叩き潰される。しかし、彼には光も背負っているように、音楽に導かれ、たまたま歩いていた場所にステージが存在しマイクを手に持つ。良くも悪くも彼は、叩き降ろされたバットによって、彼自身が光になるような存在になる。

彼は光に導かれたが、彼自身の中にも過去に光とするモノが存在し、それがフラッシュバックし後ろを振り向く。闇ではなく、光が過去に確かにあった。と、観客もそうだが、彼自身も自覚するような印象的なシーンを渾身のクローズアップで演出した。彼は光を見て振り返ったが、それ以前に彼が立つステージも、夢そのものなのである。

夢の舞台を描いた映画、、、昨年は『ジャージー・ボーイズ』があった。
そして、一昨年は『メタリカ・スルー・ザ・ネヴァー』があった。

オーディエンスは見ることに徹しれる存在であるし、見ることに慣れている。でも実は、見られる対象である演者たちもまた、僕たちを見ている。そしてまた、本来ステージ側のにいるはずのカスミも、オーディエンス側としてもポチ男を見ることができる。彼女は、ステージ側の内情も知りながら、公園で初めて彼が歌う『古い日記』を聴いて衝撃を受けたように、彼女は客観的にLIVEを見ることができる。彼女は物語の中で、特異な存在であることから、彼女が動くことで、観客はポチ男の過去もわかるし、彼女がステージにもフロアにも存在する逸脱した存在だから、ポチ男の居場所も特定できてしまう。バットで殴って記憶を消すという荒唐無稽な行為が、映画的なように、彼女もリアルではなく映画的な存在だった。

彼女の特異性は、『メタリカ・スルー・ザ・ネヴァー』におけるデイン・デハーンのように、観客に映画やLIVE感を味あわせる為に存在するキャラだ。それが多少、無理な方向に走っていっても、映画はフィクションなんだと強いパワーに押し切られればいい。

そして、彼女が見守る中、ポチ男はもう振り向かない。ステージ上で満足げな顔をして楽しそうに笑っている。彼がステージという舞台で夢を叶えているように、僕たちもフロアから夢を眺めているし、カスミもまたそれを見ている。憧れた夢が過去にあろうが、未来にあろうが、どちらでもいいのだ。自分が選択するだけの話である。