映画においての「水」の演出について / ダンテ・ラム 『激戦 ハート・オブ・ファイト』を見た。

滝の下には水がたまり人々が水をくむように、川の下流には海が広がり、そこに漁港や市場が栄え、流通の場所となり、大きな街が形成されて行く。「水」がたまる場所や広がる場所は、「生き物」が水源を求めるように、人が入り交じり豊かな経済が生まれる。ダンテ・ラム『激戦 ハート・オブ・ファイト』(以後『激戦』)も常に「水」のイメージがつきまとう映画だった。

主人公ファイは香港で2度のボクシングチャンプになったものの、八百長騒ぎで追われる身になる。彼は時に、うねりながら進む川のように、借金から逃げるようにマカオへ着く。そこで、借金で腑抜けになってしまった親父をもう一度奮い立たせようと、総合格闘技に出場しようとするチーをコーチすることになる。いわゆる、男たちの熱いリベンジ物語になるのだが、水の流れが金の流れを示しているだけでなく、今作ではさらに、「水」を絶望や希望の象徴として演出しようとする。

物語の順序としては逆になるが、ボクシングジムで働くファイは、ある親子と一緒に生活することになる。母親は、父親に逃げられたことを悔やみ泥酔しているなか、息子が風呂に落ちてしまい亡くしてしまう。それ以後、精神病院に入院したり、娘が母を心配しながら生活する毎日で、風呂と雨(道路にたまる水)に過敏に反応しパニックに陥ってしまう。ここでは、「水」が恐怖の対象として扱われ、彼女が外に出る度に雨が降ったり、家に戻ってきても部屋が雨漏りで水浸しになるという演出がされている。

そしてチーが、試合で大けがをしてファイが腑抜けになりそうなとき、彼は壊れた水槽の中に金魚がいることを見つけ、その金魚がまだ死んでいないことを知る。弟子のチーが父親の為に、腕が折れながらも最後までギブアップしなかったように、ファイもまた「誰か」の為に、20年ぶりにリングに上がることを決断する。先の母親の「恐怖」としての「水」ではなく、粘り強く生き抜くこと、「恐怖」とは真逆な「希望」を「水」で表現するとても上手い演出だった。

ファイは総合格闘技に出場することで、誰かの「希望」や、自分が八百長で師匠を裏切ってしまったことへの「償い」という対立しうる二つの事を果たすことになる。また、試合そのものも、選手たちの「汗」が、リングに「貯まる」という意味も含んでおり、試合終了後、そこにキスをすることで、二つを実現した人生への感謝と人間である以前に、地球上の「生き物」としての水源への感謝が汲み取れる。

『激戦』は、アクションのみならず、人と人との関係、それ以前に、人間が地球上の生き物であることへの確認など、思っていた以上の贈り物が詰まったいい映画でした。