「寓話」で「真実」を語るお手本 『ユリ熊嵐』第4話「私はキスがもらえない」

「寓話」というものは、娯楽でありながらも、その裏に思惑を設置しやすい。昨年のポンジュノ『スノーピアサー』がそう言った作品だった。前評判はSFと言われていたが、実際は「寓話調」に物語が展開され、最後は、限られた場所の価値観で縛られずに、外の世界に出るという、なんとも清々しい物語で、好きな作品だった。

「私は最初からあなたが大嫌いで、最初からあなたが大好きだったんだ。」

ユリ熊嵐』第4話は、その「寓話」を展開しながらも「愛」を受け入れられなかったお姫様(るる)が、その「愛」を失い、あるキッカケで、その「愛」の大切さに気づくという、プロットこそ目新しさはないが、「愛」のある物語だった。

前半こそエンタメに飛んだ演出を挟み込んだが、『スノーピアサー』の列車の中で「秩序」を守る為に行われてきたことと同様に、『ユリ熊』でも難問をぶつけてくる。

・人に夢や希望を託しても良いのか?
・死者との関わり方

親が自ら果たせなかった夢や希望を子供に託すってのはよくある話で、成功すれば、それこそ美談のように語られるが、全てが成功するとは限らない。「子供の自主性に任せていないので、それは悪いことだ。」と、切り捨てることも難しい。確かに、小さい子供には、本当にやりたいことを自分で判断できるかわからない。しかしながら、社会に旅立った「大人」たちが、本当にやりたいことをやっているか、それを本当を「理解」出来るか?という疑問もある。ただ、この世の中、何が正解で、何が不正解なのか判断するのは難しい。幸福ならいいのか?成功すればいいのか?成功しても道徳上いいのか?と思考のどん底へ潜って行く。

「死者との関わり方」さいきんだと、『四月は君の嘘』(以後『君嘘』)がとてもいい例だ。『君嘘』では、母親が死んだことで、ピアノの音が聴こえなくなった少年「公生」が、ピアノから離れ、数年後、またピアノを始めるというもの。ヒロインである「かをり」は、彼にもう一度ピアノ及び母親と向き合ってもらう為に、強引に彼をピアノへ導いて行く。しかし、幾ら可愛い女の子に引きずり回されたとしても、最後に、ピアノと母親に向き合うのは彼自身になる。(『君嘘』第13話参照)

『ユリ熊』は、この二つの問題を4話でやってみせた。そして、これを、あの裁判シーン「わたしは罪熊だから」のシーンで全て着地させるという荒技。自らの「罪」を裁判(公の場)で認める。「私はスキをあきらめない。キスをあきらめます。」一見言葉遊びにも見えるが、そこには、まぎれも無い「真実(愛)」が含まれており、この流れで、彼女(るる)の物語から、銀子へ託した手腕は流石だなと感じる。

また、第4話の「寓話」と本編に繋がる「物語」を語るに上手かったのが、「王子を崖から突き落とす」演出を、(恐らく)るるの脳内で行うこと。彼女が、ベッドから目覚める時「ハッ」と一瞬時間が空きメイドが真実を語るように、この話は「寓話」でありながらも、「本編」(現実)と直結していると強く感じさせるのだ。「寓話」でありながら、「真実」をサラッと語ってしまう美しさ。第1話のときの印象より、物語をストレートに感じとれるし、今後も楽しみに鑑賞して行きたいと思う。

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