奈落をよじ登れないバットマン『ゴーン・ガール』

つい先日「あんた何言ってるのかわからないんですよ!!」「いや、そっちだって何言ってるかわかんねえよー!」と仕事とはいえ、口論や喧嘩を世界から根絶することは出来る訳ないよな、、、とかヤカマしい周囲の罵詈雑言を聞きながら、ぼけっと考えていた。

口論や喧嘩ってヤツはメンドクサイ・メンドクサイと思いつつ、日曜にはハードコアバンドがたくさん出るイベントに行ったりした。ハードコアってヤツは世の不平不満を歌詞に乗せて、MCにも絡ませ観客を盛り上げる。自ら感じる「負」のエネルギーをポジティブな方向へ持っていき、ぶちまける音楽だ。まあ、考えてみれば、世の中に対しての不平不満があろうが、そもそも世界ってヤツは矛盾の上に成り立っているので、一人一人の思想が違うのは当たり前なことだったりする。だから「わかり合えないのが当たり前」ってのがどうしても根底としてある。「エヴァ」のように人類補完してみようか!そうすれば楽なのかもしれない。でも、「わかり合えないのが当たり前」って、そこで終わっちゃうのも少し違う気がする。もう少し「何か」を信じていたいという気持ちも捨てがたい。例えば「マクロス」では歌で世界を救おうとする。バカバカしいと言うのは簡単だけど、こういった願いってのは強い力を生むモノで、エントロピーがなんとかで、かわいらしく「キュウッ」っと鳴く動物だか、地球外生命体のような物体は「わけがわからないよ」と言いつつ、「希望」が「絶望」なる瞬間のエネルギーをかき集めている。

こういった作品群の一つの意図として、少なからず願いや希望は捨ててはいけないし、「生きるのがめんどくさいな」って状況でも、なんとか頑張ろうぜと後押しをしているのではないだろうか。

じゃあ、いっそのこと小さな希望でも込めて「わかり合えないのが当たり前」って切り捨てないで、可能性にかけてみるかい?と家を出たのはいいが、路頭に迷いブラックホールに呑み込まれてしまう。小さな希望も全てぶち壊しになる。希望だったのに、僕は頑張ったのに!でも、なんで?いや、それは小さな希望が巨大な希望というか欲望。いや、ある意味「愛」ってヤツに時には呑み込まれてしまうモノだよ諸君。と、散々、絶望を見せつけて説明するのがゴーン・ガールって映画。

ゴーン・ガール』でベン・アフレックは結婚生活を振り返る際に「自分以上のことをしていた」(台詞定かでない)と語っている。この映画は、ハッタリがいつの間にかに本当になっていた物語だ。例えば、僕らはデートの際、相手に合わせてお洒落をしたり、言葉遣いを直したり、理想の相手になるように努力する。そういった意識・無意識にしろ、大抵の人が行っていること、そんなことを、ただベン・アフレックは実行していただけの筈だった。『ゴーン・ガール』は夫婦間の問題を極端に描いているかもしれないが、恐らく結婚生活は(未婚なのでわかりませんが)こういったことの繰り返しだろう。

「なんでご飯要らないって言わなかったの?」
「なんで早く帰ってきたの?」

時には虫の居所が悪いのかもしれない。たいして意識しないで言った言葉が、後々の夫婦生活に支障をきたすのかもしれない。『ゴーン・ガール』は『レボリューショナリー・ロード/燃え尽きるまで』のように、特別二人の口論が激しい映画ではないし、『ブルーバレンタイン』のように、「きっとこの二人に終わりが来るだろう」それを繊細に物語るって、そんな綺麗でおセンチな映画ではない。フィンチャーフィルモグラフィーからすると『セブン』のような執着心と少し似ている気もしないでもないが、極端な「理想」「希望」そしてある意味「愛」を物語っている映画だろう。そもそも「愛」ってヤツは与えるモノだけど、この映画では「愛」を強要するような形で幕を閉じる。

果たしてこんな骨抜き状態になったベンアフはクリスチャン・ベールのように奈落から這い上がって街を救えるのでしょうか、、、そもそも奈落をよじ登れれば強くなれるってのは、どんな理論が働いているのか全くわからないけれれど、まあ、ノーランに任しておけば・・・・・・・・・(あっ次はザックか

ゴーン・ガール 上 (小学館文庫)

ゴーン・ガール 上 (小学館文庫)

ゴーン・ガール 下 (小学館文庫)

ゴーン・ガール 下 (小学館文庫)