イーストウッドの「さばき術」 『ジャージー・ボーイズ』※ネタバレあり

ボロボロと泣いてしまった。僕は「フォー・シーズンズ」に対して、特別な思い入れもないし、教養レベルの曲をいくつか知っているだけだった…にもかかわらず、すげえ泣いた。84歳にもなって、こんな映画を、恐らく、さらりとサバいて、何喰わぬ顔で完成させる。そんなイーストウッドの背中に圧倒され、「フォー・シーズンズ」たちへ当たるスポットライトの光にやられて泣いた。

ジャージー・ボーイズ』は、彼らの結成・栄光・転落までを描いている。一つのグループを映画に落とし込むには、大量のエピソードを必要最低限に抑えなければならない。全て書くなんていったらそりゃ無理だ。しかし、イーストウッドは、重要な軸は残しつつ、さらりと、魔法のように撮ってしまった。映画界でもかなり歳のイーストウッドだが、彼の人生の積み重ね、彼でなければもしや撮れなかったのではないか?と、この映画を見てから大げさなのか、無茶苦茶にイーストウッドを崇拝してしまっている。
というのは、この映画、感傷的な場面はそりゃあるのだが、ものすごいスピードに支配されているので、そのスピード感が映画のキーだと。切るところはバサバサとぶったきる。書くところは書く。という基本的な姿勢が完璧に出来ている。と考えた。

具体的な例を挙げるが、特に際立っているのが、主人公であるフランキーがある女に一目惚れ、まだ恋愛したことない彼は、メンバーから口説き方を伝授され彼女を連れ出す。ここで、彼女のペースになり、いきなりキスをされる。普通なら、その後ベッドシーンや付き合うまでを描くと思うが、イーストウッドは次に結婚式のシーンを持ってくる。あまりものぶっ飛びっぷりに、「うおおおお?ああ?」と訳の分からない言葉を心の中でごにょごにょしてしまった。それと、似たようなのは娘が死んだシーン。電話シーンの後に、すぐ葬式のシーン。このグループの膨大なエピソードをダラダラと描く訳でなく、あえてサバサバとさばく。この二つのシーン以外にも全体的に「さばいている」という演出がとられていたと思う。

この映画とにかく、人が「入る・出る」を徹底的に書ききる。それは、映画の序盤で刑務所に入る際に「回転扉だ」というシーンがある。このシーンは観客に話しかける演出でされており、これは映画全体が「回転扉」のように人が「入る・出る」映画だというのを表明しているように感じた。この映画は「フォー・シーズンズ」のことを描いた映画である。結成〜転落に至る人間模様が描かれ、最後バラバラになったが、うんじゅう年ぶりに再度みんなで舞台に立つシーンがある。演出として「フォー・シーズンズ」の人生を圧縮することで、スピード感あふれる撮り方・編集が目立ったのである。このグループの半生を描くには、こういった演出が極めて効果的だと。だから、イーストウッドなのだ!と号泣しながら最後まで見ていた…

それと、この映画では「フォー・シーズンズ」が舞台上歌うたびに、スポットライトが当てられる。一人一人を捉えるカメラ。一人一人にあたる光。希望に満ちた光。そして、フランキーが不良に走りそうになる娘に向けた言葉、そして、それに反応する娘に当たる一つの光。「回転扉」のように素早く・こなしているような映画に見えるが、それ以上に、一人一人に光を、物理的にもこの映画のテーマ的にも「スポットライト」を当てる映画だった。傑作です。以上

ジャージー・ボーイズ オリジナル・サウンドトラック

ジャージー・ボーイズ オリジナル・サウンドトラック