上っ面が大事か?それとも中身か?『クソすばらしいこの世界』※ネタバレあり

しわ〜す!な気分で今年もベスト考える前に劇場で見逃していた今年公開映画をTSUTAYAで軽くチョイス『オブリビオン』『ジャッキー・コーガン』『ドラゴンボールZ 神と神』『バレット』『クソすばらしいこの世界』してみた。『オブリビオン』は凄く好きでした。後でエントリーしようかなーとか考えています。『ジャッキー・コーガン』は派手な見せ場が一切無いが、最後まで飽きずにみれた。それと、『バレット』はウォルターヒルって知っていたら確実に劇場で観ていたのだが、何故スルーしていたのだろうか…?短いし面白かった。『ドラゴンボールZ 神と神』は、メッセージ性を捨てて娯楽に走ったと所々書いてあったが、逆にメッセージ性が強まっていることにイライラした。17年ぶりの新作と聴いて、ジャンルは違えどカーカスの『サージカル・スティール』と比較してしまうが、完成度が全く違う。『サージカル・スティール』を聴いてからだと、ドラゴンボールの製作陣の覚悟の無さに絶望した。
と、前段は終わりとして借りた中でも一番びっくりしたのが『クソすばらしいこの世界』だった。

韓国人留学生アジュン(キム・コッピ)は、日本人留学生仲間と共にロサンゼルス郊外の田舎町でのキャンプに参加する。彼女は英語の勉強に来たにもかかわらず、酒やドラッグやセックスにおぼれる日本人留学生たちを冷ややかな目で見つめていた。同じ頃、殺人と強盗で食いぶちを稼ぐ兄弟が、アジュンたちのいるコテージに狙いを定めており……。(yahoo映画より)

若い男女たちがワゴン車にのってバカンスを楽しみにいくなんて、モロに『悪魔のいけにえ』なんだが、その後、レザーフェイス一家的な存在に追われ殺されってのは完全にオマージュ。ただ、単純に『悪魔のいけにえ』のオマージュになってしまうと、追う・追われる者の緊張感はさすがに『悪魔のいけにえ』を超えられない。しかし、『クソすばらしいこの世界』は顔のドアップだったり、夜のシーンで補ったり、ジャンプカットを上手く使いオマージュもとの存在に引きずられないようストーリーを牽引していったのがうまかった。そして中盤で『転校生』的な飛び道具を使い殺人犯と女が入れ替わってしまったりと、「なんじゃこりゃ!?」と頭を抱える演出を使っていく。

この映画で面白いと思ったのが、「コミュニケーションの不能」さ、つまり「ディスコミュニケーション」を滑稽にそして残虐に描いている。まず、アジア(日本・韓国・中国?)からアメリカに留学してきた子たちは英語がしゃべれない。その上、親のコネ的なもので卒業を約束されている。つまり、単純にアメリカの力に憧れ観光気分でこれまで過ごしていたDQNである。英語がしゃべれないので、主人公とのコミュニケーションが不能。例えば主人公が「あなたたちはビールとかドラックとか…」って話していれば「お!ビア?冷蔵庫にあるよ!」なんて感じになるし、カタコトなコミュニケーションとなってしまう。そして、
レザーフェイス的一家の親父?おじ?に関してもなにしゃべっているかわからないし、身体が入れ替わった一家の息子とセックスしそうになる始末で、身体が入れ替わる事で普段コミュニケーションが取れていてもディスコミュニケーション状態に陥る。自分の事を歌で伝えようとするが、それも信じてもらえず、この映画の登場人物たちは人間の本質ではなく上っ面の見た目でしか判断出来ない。これは、上っ面のアメリカの力に魅了されている意識低い系留学生たちのファッション感覚さを表現しているのではないかと感じる。

また、一家に殺される留学生たちは、手・脚を切り離され「歩けない・手が触れられない」を表現していて、ここでもコミュニケーションの不能さを示している。ここのゴア描写は苦手な人は駄目だろうが、血がドロドロ飛び出て、腕や脚が切れ落ちるシーンは気持ちがいいものであった。ロン毛のジャップは脚を切り落とされ無理矢理歩かさせようとするが歩けない、ここでもコミュニケーションの不能を意図させているシーンである。そして最後の飛び道具二回目の『転校生』である。あそこで実は二人は入れ替わっていなかったら?と考えると、また面白くて、勉学に歩む主人公は、英語をバリバリはなせるが、距離を置かれいいように利用されている。「良い会社で働く=コミュ力」の必要さを求められていると思うが、そのコミュ力が他の学生たちとは距離を置かれている原因をつくっている。これが最後のシーン入れ替わっていなかったら、と考えるとコミュニケーションなんてくそくらえだ!!との殺人シーンに至るんじゃないだろうか。

この映画を観ていて「果たして人間の本質とは何処にあるのか?」と考え込んでしまった。よく人間は「人の本質は外見ではなく、中身が大事」だと主張する。しかし、このような映画のような予測不能の自体に陥った時、中身ではなく外見で判断されてしまう。僕らの日常生活でさえ、可愛いと思った女の子が化粧を取ったらビックリ全然違う人だったという体験は少なからずいると思う。そうした場合、普段中身が大事と言っている人もいるが、実は本質は外見にも存在するんではないかと考えてしまう。
例えば、「ファッション」も同じようなものだと僕は考えている。人は「モードだ」というと格式高く感じ、一歩引いてしまうが、「流行」というと、一転してミーハーだと捉えられてしまう。結局考えると「モード=流行」と捉えても大きな間違いは無い。それに、逆にモードとは無縁な存在として君臨するファッション・アディクトたちも、気づけば流行しているアイテムに身を包んでいる可能性があり「流行に左右されていた」と感じる事があると思う。
人は「ファッションだ」「外見だ」と聞くと、軽く考えがちだが、「ファッション」は格好良さやキュートさの前に、まず生活に必要な衣服として存在している。原始人でもない限り服とは日常生活していくなかで必要なもので、きちんと清潔に保っていなければ、人間性まで疑われてしまうこともある。こうした場合、人間の本質はどこにあるのだろうか?「本質は中身だ」と言っていて、「ファッション」や「外見」を簡単に考えていると人生左右するような重大な分岐点でチャンスを掴めない場合もある。「外見をきちんとすることも結局中身だよ」と言えば、終わってしまう論争かもしれないが、僕自身この問いに対する自分らしい回答が準備が出ておらず、近頃良く考えており、今後長い時間をかけて考えていくテーマじゃないかなと感じている。

まあ、映画の話に戻すと、スラッシャー・ムービーとしては中々面白かったし、さくっと80分以内で終わったのも評価出来る。苦手な人は無理だと思いますが、ゴア描写OKなら観て楽しめると思いました。おすすめです。