その願い何度も繰り返しても…『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ[新編]叛逆の物語』※ネタバレあり

例えどんな理由があろうとも、世界の法則に反してしまえば、自分の理想を具現化することは到底出来ない。どんなに傷ついても救済したいという願いは、やがて大きな罪となり、1回、10回、100回と何度も繰り返すことをしても、あの日の幸福を取り戻す事は出来いのだ。


今回の『劇場版[新編]叛逆の物語』は、前作やTV版と対になる物語である。TV版や前作の劇場版を観れば、鹿目まどか暁美ほむらは対になっている存在と描かれているように、この新編は、なるべくしてなった物語だったのかもしれない。

鹿目まどかは、キャリアウーマンの母親、主夫の父親、まだしゃべれない弟と、幸せな家族を持ち、学校でも誰にも親しみを得られる可愛い女の子として描かれている。対して、暁美ほむらは、病気で学校を休んでいて家族描写がなく、内気な性格で学校でもなかなかコミュニケーションがとれない。まどかとほむらは反対の存在として描かれているが、次第に手を取り合い仲を深めていく。
ただし、双方の想いは少しずつズレていて、暁美ほむらの中には、初めての友だちである鹿目まどかしか存在しない。同じく魔法少女である美樹さやか佐倉杏子巴マミとは一つのグループとして一緒に戦い、日々を過ごすが、あくまでも暁美ほむらには鹿目まどかの存在が大きく、その他の子も友だちではあるのだが、”まどかのグループの誰か”でしかない。
対して誰とでも仲良くやっていける鹿目まどかからしてみると、暁美ほむらは一ヶ月前に転校してきた新しい友だちであり特別な存在ではあるが、それは他の魔法少女たちと等しく一つのグループの中の暁美ほむらでしかない。その二人のズレには、二人が願い叶えた祈りにも差が出ている。
暁美ほむらは、自分の初めてそして唯一の友だちである鹿目まどかの命が果てるとき「鹿目さんとの出会いをやり直したい。彼女に守られる私じゃなくて、彼女を守る私になりたい」と、他の魔法少女が死んでいようが願いの対象が鹿目まどかだけであり、それは自分だけの願いである。対して、鹿目まどか暁美ほむらワルプルギスの夜の攻撃を受けて瀕死の状態であろうとも「全ての宇宙、過去と未来の全ての魔女を、この手で生まれる前に消し去る」と対象は暁美ほむらだけでなく、誰かの願いを守る為の願いである。ちなみに初めて鹿目まどか魔法少女になった理由は、「交通事故に遭った猫を救う」だったらしい。やはり彼女の願いは救済である。

この願いを聞くからに鹿目まどかは中学生としては出来過ぎた行動、むしろ中学生だからこそ出来る選択なのかもしれない。逆に言えば、社会を知った大人が自分だけ損をしてしまう願いなど叶えないだろう。それに対して暁美ほむらの願いは、鹿目まどかへの一途な想いであり、元々は自分に声をかけてくれた感謝の願いだったかもしれない。
そして、鹿目まどかは時間を戻すことのできる能力持つ暁美ほむらに対して「キュウべえにだまされる前の馬鹿な私を助けてくれないかな…?」と頼む。この”願い”は、ほむらにとって永遠の呪いだったのかもしれない。このまどかの願いは、鹿目まどか魔法少女にならないこと、つまりこの事件にかかわらないことを指す訳であるが、一度かかわってしまった因果はなかなか離れない。何度繰り返しても失敗するし、最終的には、鹿目まどかを神化させてしまうのである。
神化へと導いた最後の願いは、最初に鹿目まどかが願った祈りでもないし、暁美ほむらが願ったものでもない。しかしながら、まどかの最後の願いを聞いたほむらは、世界が書き換えられ鹿目まどかが円環の理となった世界でも戦い続ける。
作品から表現された事をそのまま受け取れば、二人の願いの差には家庭環境やコミュニケーションがとれるか、とれないかの差が大きな違いとして表現されていたと感じる。



かなり前置きが長くなってしまったが、前作での対の存在は、今回の新編ではハッキリと結果として描かれている。

魔女になりかけた暁美ほむらが願った世界は、鹿目まどかやそのグループと仲良く一緒に過ごすことである。ただ、この理想郷に対して、暁美ほむら自身が疑問に思う。「こんな世界で良かったのかしら?」

そして暁美ほむらは、インキュベーターが作った干渉遮断フィールド内で、自身の記憶改ざんにより神である事を忘れた鹿目まどかへ「夢をみたの・・・まどかが皆の前からいなくなってしまって、そしてまどかを誰も覚えていないの。それを私しか覚えていなくて…」と告白すると、「ほむらちゃんが辛いのに、私だって耐えられるわけない。そんな選択出来るはず無い」と、100人に聞けば9割以上が答えそうな当たり前の回答になるのだが、暁美ほむらはコミュニケーション不足で、人との付き合い方がわかっていないので、「これが、まどかの本当の願いなら、私は間違っていた」と、鹿目まどかの言葉を真に受けてしまう。
※台詞は間違っているかもしれません。

その結果、暁美ほむら鹿目まどかと対峙する存在「悪魔」に成り果て、本編のまどかの願いを否定し世界を書き換えてしまう。
ただ、この物語はなるべくしてなってしまったと僕は思う。劇場版のパンフレットを読んでいると鹿目まどか役の悠木碧は、

「これは「愛」ではなくて「欲」なんじゃないかって。今までほむらちゃんは、ずーっと我慢してきたんですよね。それが蓄積して、爆発して、世界を変えるほどのものになってしまった」

と語っている。ほむらの本心は、まどかと一緒に過ごす事、まどかが大好きな人たちと離ればなれにならないこと、その世界を願った。しかし、まどかの願いとして世界が変わってしまい、まどかが存在しない世界でも彼女の願いとして”我慢”し、戦い続けた。結果、グリーフシードが濁り果てたのである。
そして、新編で「それがあたなの本当の願いだったら…」と鹿目まどか本人から聞いてしまったので、例えその身が朽ち果てようとも、鹿目まどかと対峙する存在”悪魔”になろうとも、鹿目まどかが大好きな人たちと笑って生活出来る世界を作り上げてしまった。*1

しかし、鹿目まどかは何処へ行っても聖女であり、悪魔となった暁美ほむらは、欲望と秩序を天秤にかけます。しかし、鹿目まどかは聖女なので「自分勝手にルールを破るのは悪い事」と言います。「ならいつか、私はあたなの敵になるかもしれない」と暁美ほむらは涙を流す。ここで対峙する関係というのが一層強調されています。
※台詞間違っているかもしれません。

また、対峙するという関係は演出の形としても表現されていて”円環の理”つまり、まどかが神様として存在する世界では「円=○」の演出が多々あり、例えば

・通学中まどかの周りを回るさやかと杏子
・ナイトメア退治の方法
・ほむらが杏子にこの世界は変だと最初に相談するシーン
・丸い月
・街から抜けられない。

であったり、あげればキリがないですが、円環の理の中にいるという演出です。

また面白いのが、冒頭ほむらの語りから始まりますが、あれはほむらのグリーフシードが濁りまどかへの想いを連ねているときに、キュウべえが干渉遮断フィールド内にほむらのグリーフシードを閉じこめているシーンでしょう。開いた扉に渦を巻くようグリーフシード(ほむら)が落ちて扉が閉まる。逆に、キュウべえの干渉遮断フィールドを出る時は、まどかの手が窓からほむらを救いだそうとしています。*2

対して、ほむらがつくった世界では円環の理を否定しています。
もともと円環の理の世界で生きていたものには、

・マミさんのティーカップを割る
・杏子のリンゴを受け取らない

という意地悪をして円環の理を否定します。

逆に、円環の理の世界から外れたものには、記憶を改ざんし普通に生活させようとします。

・さやかの力を封印する。
・無邪気にはしゃぐなぎさ。

なぎさの存在感ってなんだろうと思っていれば、最後の演出の為だったんですね。これは怖い。
また、月が半分かけているのも”円環の理”を引き裂いたことを表現している演出かと。


パンフレットで悠木碧が語っているように、この出来事、これは一人の欲望なんだと思います。ただ、ほむらの想いは純粋で「鹿目まどかが大好きな人たちと離ればなれにならない世界」です。ほむらの欲望全開であるが、神と対峙するもの描くということで、ほむらの欲望はこの物語上の一つの正論や正義というか正解だと思います。*3

この物語上というのが重要で、個人的にはただの欲望だと思うんでけどね。

暁美ほむらはこうするほかないと一つの願いを全うしようとした。自分が悪魔(戦場ヶ原モード)になろうと、本当は間違っているとわかっていようと、大好きな子と敵対する存在になろうとも覚悟した。これは、とても悲しい物語です。何度繰り返そうとも、救えなくて、理不尽でも努力して、世界を書き換えても、もうあの日には戻れない。人が一度犯した罪は、一生拭いきれず、一生呪縛として付き合っていかなければならないと…

プロットだけ引き出してくると、過去作品の引用がそこらと鏤められています。つくられた虚構世界というところではジムキャリーの『トゥルーマン・ショー』、『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』やBDから影響を受けている『ダークシティ』、抜けられない街は『サイレントヒル』あたり、実は自分が虚構を作り出していたあたりは『シャッター・アイランド』『ビューティフル・マインド』の統合失調症を扱う映画のニュアンスに似ているなと感じました。
ちょっと百合した感じや、影絵、傷だけの手、街の造形美は『少女革命ウテナ』で、世界を守るものから、世界を破滅させるもの、暗黒面への落ち方は『スター・ウォーズ』っぽい。あと、思い出せないのでこの辺でやめますが、もっとたくさんの作品が引用されているはずです。ただ、この作品は新房監督、虚淵さん、声優たち以外のスタッフたちにも愛されていて、ただの引用ではなくて、あくまでもまどマギに昇華されているのが素晴らしいと感じました。

既に4回観ましたが、ほむほむファンとしては精神ダメージが大き過ぎます。泣いても泣いても涙がとまりません。涙って枯れないんだって知りました。こんなに映画観て辛い気持ちは初めてかもしれません。ひょっとしたら自分もループしていて、何十回も観れば、ほむほむが笑顔で笑っている世界が一回くらい混入されるんじゃないかと願ってしまい映画館に通ってしまいます。自分もほむらモードに入りそうです。若いって辛いですね。これが恐らく高校生くらいの子たちが主役だったら、こんなことにはならなかったと思うんですね。そこがキュウべえの悪知恵が働いているところ。

キュウべえって個人の価値観じゃないくて、社会や国、それ以上に世界のバランスを保とうとしているだけの存在なので、こんなのわけがわからないと利用出来ないと知ってさーっと逃げるんですけど、ほむらは許してないから、ボロ雑巾になってもキュウべえを生かし利用する。なんて、センチメンタル・ホラー映画だと驚愕しました。

映画を観た後、複製原画展でまだ幸せだった前編後編のオープニングを見ていたら、そこには幸せなほむほむがいて…原画を見ながら泣いてしまうという初体験、、、

人生で最も観ているのが辛い映画となってしまいました。あのオチだと、終わりにも出来るし、続編がつくれそうな展開になっているのが憎い演出…(続編あっても辛くて見に行けないかも)

まだ自分の中で面白かったのか面白くなかったのか、感情が高ぶり過ぎて判断がつかないのが現状です。ただ、四回観ても飽きてないし、更に観たい(でも辛い)と思えるのがこの作品の魅力じゃないでしょうか。

ファンにはもちろん、ファンでない方もTV版を観て是非劇場へ。

*1:ほむらがまどかに救済されるとき「例えどんな姿に成り果てようとも…」(台詞間違っているかもしれません)と言っていますから、あのシーンでは既にまどかの救済を拒むつもりだったんでしょうね。

*2:オープニングも円環の理を意識させるようティーカップで回ったり相当手が込んでいますが、ほむらが悪魔になる瞬間も一瞬描かれていたりします。(オープニングから涙ものでした…)

*3:この物語上というのが重要で、個人的にはただの欲望だと思います。