これこそ自己救済?一途な想い?壮大なSF大作!『ザ・マスター』をブルーレイで観たぞ!

さてさて、僕の13年上半期ベスト映画『ザ・マスター』のブルーレイが発売となったので早速購入。本編のほか、未公開映像、撮影現場の風景、予告などが特典映像が入っています。

僕は以前『ザ・マスター』を”自分の気持ちは他人には理解出来ない”として結論づけています。劇場で3回鑑賞したんですが、「こういう映画じゃないか」と予測は出来ても本当にわけがわからないように作られている映画と感じました。精神病・アルコール中毒・宗教にハマる人の気持ちなんて訳がわからないし、断片的な記憶をさかのぼっているような構成になっていて辻褄が合わないのだ。
『ザ・マスター』を観ました。※ネタバレあり - つぶやきの延長線上

以前、結論付けた”自分の気持ちは他人には理解出来ない”については、『風立ちぬ』で西島秀俊さんが「アヴァンギャルドだ!」と言って観客の気持ちを代弁してくれているように、『ザ・マスター』ではジョンモアがマスターを批判する事で観客の気持ちを代弁して「なんじゃこりゃ!?わけわかんないよ!」と”理解出来ない”と言ってくれています。

今回ブルーレイで再鑑賞してかなりしっくりきたことがあり(公開当時から言われていた事でしたが)それは、マスターとフレディを対にして考えると何となく辻褄が合うような構成になっていることです。

■実はマスターとフレディは同一人物では?

特典映像に触れる前に本編だけの情報でポイントをおさらいしていくと、一番のポイントとして、この映画はシンメトリー演出が多用されていることに気づく。映像そのものもシンメトリーを意識して撮影されているなと感じられるんですが、箇条書きにまとめてみると‥‥

・マスターとフレディは酒好き(船内で飲みかわすシーンもシンメトリー)
・フレディの父親はアルコール中毒、母親は精神病 でどちらもおかしい
・ドリスとジム・デイの子どもは男の子二人
・ジム・デイに逢いにいくときのカットが最初は下手から、二回目は上手からで対になっている。
・「世界を半周したかな」という発言(半周は廻っていないことになるので対になっている)
・マスターとフレディはどちらも社会から疎外されている
・最初の出会いについて触れるシーンで「パリで秘密指令を届けていたが、65個中2個は行方不明になる」と発言している。
・マスターの子どもは、娘・息子・赤ちゃん・おなかの中に一人 合計4人
・映画のジャケットもシンメトリー(特にUS版のポスターを見ると…)

長々するのでこの辺にしておきますが、イギリス支部のマスターがいた部屋もシンメトリーでしたね。”自分の気持ちは他人には理解出来ない”と結論付けをしましたが、フレディとマスターを同一人物として考えると、頭のおかしいフレディに何度も悩まされるマスターは実は、執拗にフレディと対峙することで、フレディ(自分自身)を治療しようとしていたんじゃないだろうか。それをシンメトリー演出で表現しているんじゃないか?と思いました。

「治療する」というのは、マスターがジョン・モアとの対峙シーンや逮捕されるシーンで語っている事ですが‥‥”過去を全て記憶している”と言うマスターの理論では過去に遡ることで病気や核戦争だろうが未然に防ぐ事が出来ると熱弁しています。その時点で「なんだこいつは?電波ちゃんか?」なんて思うんですが、マスターとフレディが同一人物(前世と今世の関係)として考えると、”プロセシング”でフレディ(自分自身)を治療していく映画なんじゃないかと思えてきたのです。

一番のヒントは映画のラストシーンにあって、マスターのもとから離れたフレディは酒場で出会った女性とセックスをしながら”プロセシング”の真似事を始め、最後のカットでは映画の最初のシーン(冒頭の砂で作った裸の女の横で寝る)に戻ります。
このシーンを観ると、フレディがプロセシングで過去に遡っている話なんじゃないかと思えてきて、フレディがマスターの前世であり、近い未来(来世)マスターになるんじゃないかと感じます。

それに、初めてマスターがフレディに話をしたときに「逸脱している」と言っているように、「逸脱している」自分を治療する為にプロセシングしているんじゃないか?と思えてきます。だから、初めてプロセシングをする時は自分を治療するという行為そのものに不安を抱いていて”簡易プロセシング”から始めたのでないでしょうか?

また、留置場にいるときフレディは暴れますが、マスターはそのフレディに向かって「お前はデタラメだ!私だけが君を好きだ」なんて言ってしまうのですから・・・好きな酒を造ってくれる存在以上にマスターがフレディに何らかしら特別な存在であると示しているんじゃないだろうか。

ラストシーンでやっとセックスシーンが出てきます。本編中フレディは何度も異性とのセックスを試みますが、なかなか本番まで至っていません。子だくさんのマスターでさえエイミーアダムスに手コキでイカされるだけだし、セックスをすることで現状の自分から脱したいを意味しているのかと思えます。

という点から、個人的にはマスター=フレディの関係であり、幾つもの過去に遡って病気やトラウマを治療している映画に感じるのです。

■20分の特典映像に真実が?

4回目の鑑賞で先の結論踏まえて特典映像観たんですけど、「こ、これは!!」みたいな感動にかられてしまいました。

まず船で、マスターとフレディが語るシーンがあるんですけど、「君とは知り合いだった」「過去に戻り傷を治せたら」とか発言が出てくるんですね。
これは、ジョン・モアとの会話シーンでプロセシングについて語っているように、プロセシングそのものの行為している状況を物語っています。(だから断片的に辻褄の合わない話になっている)

先にうるさいくらい言ったようにシンメトリーな演出が特典映像でも多用されています。甲板から二人で海に飛び降りるシーン(これは予告でもありました)だったり、No2の本を発表する際に、フレディはマスターとは逆側の壇上から入場していたり、最初はフレディが聞いていましたが、今度はマスターがフレディの発言を聞く側になっていたりする演出があります。もっと言うと、No2の発表会で夜ガラス越し(カメラ)で話すシーンの蛍光灯のあたり方さえもシンメトリー演出に作られているのかなと勘ぐってしまうほど。

それに重要なシーンだと思ったのが、フレディがマスターの本を燃やすシーンがあるんですね。この映画の結末を考えると、結局マスターは「治療出来ずにフレディを手放した」という見解が正しいのか、最後に「セックスしているから治療できたのか」が正しいのか、判断が難しいところですが、本を燃やす行為は”治療”そのものが自分で胡散臭いと思っていたからじゃないでしょうか?
それはマスターが本No2の発表時に「想起ではなく、想像にしたのですね」と元々プロセシング時に使用する”想起する”を”想像する”と言葉使いを変えた理由を聞かれた際に「何がいいたい!!」とマスターはぶち切れます。これが”本を燃やす”シーンに表現されていて、自分でも嘘をハッタリだけじゃ通せないと感じていたから”想像”という言葉に変えたのではないだろうか。

このことから自分を嘘でにかためて、治療するなんてことは出来ないだろうと感じ、自分をごまかす事が嫌になったマスターはフレディを手放したのではないだろうか。「出て行くなら二度と会いたくない」と問いかけるマスターに対してフレディは結局出て行く訳ですから、自分の考え(治療/プロセシング)では治療出来ないと感じたんじゃないでしょうか。(結局はプロセシングしてしまうのだが…)

フレディがキャスパーを観ている途中、夢の中でマスターが言う「私たちの出会いについてわかった」(「治療の仕方がわかった」)という言葉はプロセシング開発当初の自分への問いかけじゃなかったじゃないかと、うるっときますね。

■結論を付ける前に…
僕はフレディとマスターが同一人物で自己救済をしていると結論つけるのかってときに…

「もし、マスターとフレディが同一人物ではなく、二人だったら?」と考えた場合、めちゃくちゃ壮大な愛の物語なんじゃないかなと。
恐らく、映画そのものが”プロセシング”ということは揺るがないと思います。(辻褄が合わな過ぎる話だから)

そう考えると、マスターとフレディの最初の出会い「パリで秘密指令を…」のくだりの部分がまさに最初の出会いであり、彼らは友情を深め親密な仲になっていった。2つが行方不明になったといっていますので、二人が何らかしら離ればなれになったと考えられる。それを悔やんだマスターが、何回もの転生を繰り返し、現世で治療しなければならないほど病気になったフレディを救うため、マスターは”プロセシング”を開発し治療をしたのではないか?
父親はアルコール中毒、母親は精神病、近親相姦も実はフレディ自身の前世のことで、「逸脱している」フレディをマスターは必死に治療しようとした。何度も何度も繰り返して…

ここで思い浮かべるのは『魔法少女まどか☆マギカ』の”暁美ほむら”であり、自分にとって初めて友だちになった”鹿目まどか”を救済しようとする暁美ほむらは何度も同じ時間をやり直し、いつの間にか迷子になってしまっていた。
これは、ジョン・モアや自分の息子から「あんなの嘘っぱちだ」と言われるマスターにも同じ事が言えているのではいだろうか?実は何度も転生を繰り返すうちにマスター自身が「逸脱した」存在となってしまい、自分も「わけがわからない」(byキュウべえ)ことをしていたんじゃないだろうか。こんな事を考えているうちになんだか涙腺がうるうるしてきました…

■結論は?
以上の事を考えてみると、果たして一人だったのか二人だったのかはなんだかブレているのが実情です。公開時にも思った事ですが、この映画はいくらでも色々な見方が出来るし、他の人の意見を共有するのがこの上なく楽しみな映画だなと思います。
「自分を必死に救済しようとしていた男」、「友を必死に救済しようとしていた男」…いやいやそれは違うよ!という意見も思う方はたくさんいると思うし、是非鑑賞されたかたは周りの方とディスカッションしてもらいたい。
それくらい映画そのもの力を持った作品だったと思いました。逃げ腰な結論のつけかたですが、劇場でみてモヤモヤされている方には、ブルーレイお勧めします。

マスターが「中国行きのスロウ・ボート(On A Slow Boat To China)」を歌ったように、僕も永遠にこの映画に翻弄され続けるのだろうな…