この命果てるまで『風立ちぬ』を観ました。※ネタバレあり

[あらすじ]
大正から昭和にかけての日本。戦争や大震災、世界恐慌による不景気により、世間は閉塞感に覆われていた。航空機の設計者である堀越二郎はイタリア人飛行機製作者カプローニを尊敬し、いつか美しい飛行機を作り上げたいという野心を抱いていた。関東大震災のさなか汽車で出会った菜穂子とある日再会。二人は恋に落ちるが、菜穂子が結核にかかってしまう。(yahoo映画より)

[感想]
宮崎駿にここまでの覚悟があっただなんて、僕は宮崎駿監督をどこかで軽視し過ぎていたかもしれない。僕くらいの年の人たちは、子供の頃、親たちに『魔女の宅急便』『天空の城ラピュタ』『となりのトトロ』などのいわゆる”ジブリ作品”と馴染み、特別アニメは好きではないという人たちも”ジブリ”というブランドネームに惹きつけられ殆ど毎年ジブリ映画を楽しむ。それは一種のカルトのような出来事にさえ感じてしまう。いやはやそのような状況を宮崎駿監督は望んでいるんだろうか、間違いなく”ヒット作品”にはなるので、次作が創れるという気持ちで嬉しいかもしれない。そのような”ジブリ映画”というコマーシャルを『風立ちぬ』ではすべてぶち壊しにきたのだ。それほどまでに、宮崎駿監督は今回”覚悟”を決めてこの作品を創った。

僕はこの”創った”という言葉がこの映画にはピッタリとはまってくると感じている。ただ、音楽がよかった、映像がよかったではこの映画を語るには少なすぎる言葉で、一世一代宮崎駿の人生がこの映画には色濃く反映されている。今回、効果音は殆ど人間の声(ボイスパーカッション)で作成されている。正直、プロペラ音楽やエンジン音は、人の声っぽさがですぎていて多少のノイズになっていたが、関東大震災のシーン(逃げまとう人間のシーンは思わず息を飲むほど素晴らしかった、そして同時に泣いた)の音が凄まじい。本来地震の音なんて存在しないものであるが、この時、この人たちが、震災を体験した時恐怖感からこのように音が聞こえたのではないか?と、人間の精神に訴えかけるような効果音の使い方だ。普通の映画ではこんな音の作り方はしないだろう、まさに恐怖は自分のなかにあるという「恐怖=自分自身との戦い」の構図が見て取れてしまうなと感じた。

作品そのもののストーリーは夢と現実が交差し、死と生とが凄まじく交差する作品である。ぱっと見てしまうと、ものすごく急だし、断片的な作品だと感じるが、これは男たちの夢と現実に揺らぐ記憶の断片の話であって、逆に綺麗にまとめてしまうと、話そのものが嘘っぽい話になってしまう。この辺は賛否両論だろうが、僕は全力で支持する。今年でいえばポールトーマスアンダーソン監督の『ザ・マスター』も作家の意志が色濃く反映されすぎていて、どの場面を組み合わせても嘘っぽい話になっていた。宮崎駿監督レベルであればいくらでも、丁寧にストーリーを作れただろうが、この映画はこれで正解なんだと思う。
そして、この溢れんばかりの死の匂いがする作品であるが、残酷描写をあえて外してストーリーを進めている。あえてという言葉は、すこし嘘になるかもしれない。等の本人は戦争の現場に足を運んでないし、”設計士”という立場なので当たり前のことでもある。ただ、美しいものを空に飛ばしたかった。それだけなのだ。

作品の中で、本庄役の西島秀俊が堀越の飛行機を観て「アヴァンギャルドだ!」と言う。この言葉は、もちろん飛行機に発せられているが、西島秀俊自身「この映画はアヴァンギャルドだ!」と主張したかったんじゃないかというくらい印象的な台詞として記憶に残っている。

クリント・イーストウッドが『グラン・トリノ』を撮ったように、ロバート・アルトマンが『今宵、フィッツジェラルド劇場にて』を撮ったように、一人の作家としてのとてつもない意志が痛いほど心に突き刺さってくる。少し考えすぎであるが、宮崎駿監督が主人公に庵野さんを選んだのも、『今宵、フィッツジェラルド劇場にて』でポールトーマスアンダーソンが助監督を務めたように次の世代への橋渡しだったのかもしれない。宮崎駿監督の人生をひたすら考えていたら、この欠点だらけかもしらない映画に、最初から最後まで号泣させられてしまった。こんなとんでもない映画では撮れる人は日本にはいないのではないだろうか。人生をかけたアニメーションという世界で、アニメでしかできないことで、全てのアニメをぶち壊しにいった宮崎駿監督にただただ、拍手することしか僕にはできなかった。