『ホーリー・モーターズ』を観ました。※ネタバレあり

[あらすじ]
夜もふけた頃に、ホテルの部屋で目を覚ました男レオス・カラックスレオス・カラックス)が、隠し扉を発見し下りていくと顔のない観客たちであふれた映画館へと続いていた。一方、オスカー(ドニ・ラヴァン)は豪邸から子どもたちに見送られて真っ白なストレッチリムジンに揺られて出勤。美しい女性ドライバーのセリーヌ(エディット・スコブ)が車のそばで彼を待っており……。

[感想]
眠りから目覚めたレオス・カラックスが、奇妙な森の絵が描かれたドアを開けると顔の無い観客が待つ劇場に誘われる。短編『TOKYO!』のメルドを除けば『ポーラX』から13年間映画を撮っていなかったこともあり、カラックス本人の感情がむき出しとなった映画となっていた。OP一室もカメラが窓を捉えると空港のような場所の近くである。空港=出発・到着 の関係からも、やっと映画が撮れた、これから映画が始まるという意味にとれる。

『ボーイ・ミーツ・ガール』以降、ドニ・ラヴァンを殆どの作品で登場させているが、今作ではオスカーという一人の人間を通して複数の役を演じさせるというのが大方の物語だ。
オスカーはSPに護衛されながら、白いリムジン(クローネンバーグの『コズモポリス』でも登場していた)に乗り、一つ目のアポ『物乞い老婆』を演じる。オスカー自身演じる前に、「貧乏人どもが狙っている」などの発言があったことから、役柄が対になっている。(恐らく富豪についても前の日の最後のアポと推測される)

二つ目のアポは『3Dモーション俳優』カラックス作品は、主人公がよく走る。ランニングマシンに乗って走るオスカーも全力で走っているが、途中で力つきて”めまい”を起こしてしまい足下から崩れる。その後のリムジンでの会話でセリーヌに対し「今週は森のアポはないのか?」と聞いていることから、オスカー自身疲れきっており、癒しを求めているように感じられる。
※どこかのインタビューでカラックス自身どうして”森のアポは無いのか”と台詞入れたのは不明らしく、無意識のうちに映画への欲求が映画自身に反映されていると考える。

三つ目のアポは『怪人メルド』。短編『TOKYO!』のメルドがフランスに登場しカメラアシの指をかみちぎって女優をかっさらう。メルドが歩くシーンでは『ゴジラ』のテーマソングが流れ、怪獣ならぬ怪人として観ているものに強烈なインパクトを与える。僕もこのメルドが一番インパクトが強い。

四つ目のアポは『父親』。まるで本当の父親なんではないかと思うくらいのオスカーの気合いの入れようで、娘との会話も親子通しにしか思えない。しかしながら、終わった後のオスカーは疲れきっており、かなりフラストレーションもたまっている。そんな中、五つ目のアポ『インターミッション アコーディオン楽団』が始まる「Let My Baby Ride」の演奏に乗せてオスカーの感情が爆発する。こう進んでみると、一つ一つのアポは互いに関係ないように見えて、オスカー自身が演じやすいように組み込まれているのではないだろうか、営業のサラリーマンがアポイントで訪問しやすいお客を順に巡るように、このアポは緻密に考えられてくまれていることがわかる。
六つ目のアポは『暗殺者』。ここでは中国人らしき顔見知りに”オスカー”と呼ばれていることがわかる。このことからも始めの『大富豪』は前日のアポイントだったのっではないかと推測される。ここでの事件はオスカーが殺したと思った相手に首をさせれてしまうこと。あれだけ刺さってしまえば致命傷となり得ないが、車に戻ったオスカーは何食わぬ顔で関係者らしき人と会話をしている。果たしてあれは予定に組み込まれていたものなのだろうか?ただ、カラックス自身が「これはSF」と語っているように、深く追求しても答えがなかなか出るもんじゃない。

またしてもヘトヘトのオスカーは関係者らしき人と会話をしているが、「誰かがお前は疲れている」(こんな台詞かな)と影で中傷されていることを知る。これは俳優職業のメタを表現しているように感じられる。今じゃインターネットもあればSNS等で誹謗中傷がそこら中で行われている。
オスカーはここで「カメラは昔は人間より重かった、それが小さくなり、今では見えない…」(台詞は間違っているかも)と懐古主義のようなセンチメンタルなことを言うが、彼がこの仕事を続ける理由は「行為の美しさ」からであるよう。
「行為の美しさ」それは、観客がいなければなりえないことで、OPの顔のない観客が思い浮かばれる。しかしながら、観客自身は我々であり、オスカーの美しい演技は目に焼き付けられている。

七つ目のアポは『老人の最期』ここで、「テオをやるんじゃなかった」なんて言う台詞が出てくる。六つ目のアポとの対なのかもしれない。ここで、同業者とともにアポをこなしていくが、同業者の女は、役に入ったものの、役作りをしていなかったようで、オスカーの演技が一旦止まる。これは、カットを示していて再度演技を始めるように、俳優そのものの表現のように感じられる。ここでオスカーは、「また会いたい」のような言葉を残しているように、俳優活動そのもののメタファーだろう。

八つ目のアポは、『銀行屋殺し』ここはレビューを観ているとオスカー自身ではという考えが多いが、僕はアポだったと思う。それは次のアポに入る前にわかる。ここでも撃ち殺されたオスカーは、血だらけになりながらもセリーヌに肩を持たれ起き上がってリムジンに戻る。
このアポでわかりにくいのは、アポと現実の曖昧さ、リムジン内ではセリーヌに「人殺しは一日一人では足りない」と言っているように、一見アポに見えない行動に見えるが、俳優と自分自身の現実の曖昧を表現したアポだったように感じられる。『ダークナイト』でジョーカーを演じたヒースレジャーは、一説では役に入り込み過ぎて、死んでしまったと言われている。そのような現実との曖昧さを、このアポと、次のアポの間の物語が対になっているように感じられる。

アポというルーティンから脱しているのが『20年ぶりの再会』、あの『ポンヌフの恋人』で登場したサマリテーヌ百貨店で20年ぶりに再会した恋人とひとときの時間を味わう。「私たちは誰だったの?」とキーワードがありますが、これも俳優の職業柄へのメタファーのような気もするし、本当は『20年ぶりの再会』はアポだったんではないかなとも感じられる。
ただ、セリーヌが「このウスノロ!」とぶち切れて同業者と喧嘩するシーンまでアポだったのかな?と思うと妙な気もするし、この『20年ぶりの再会』の前ではリムジンで「最後のアポ」と言っており、再会が終わった後のリムジンで「次は最後のアポ」と、話していることからアポでは無かったと丁寧に説明してくれている。とくに、「タクシー!あの鳩を追ってくれ!」と二人で初めて笑うシーンが出てきており、これは素の現実のオスカーだとわかる。これは、『20年ぶりの再会』と対になっており、真剣なオスカーと冗談を言うオスカー、緊張感のあった素のオスカー、リラックスしたオスカーと意味がとれる。

そして最後は『主夫』猿の家族が登場する。猿の演技も人間の演技もさほど変わらないということか、ロジャーコーマンが『コーマン帝国』で、「低予算になれば、映画が薄くなるだけさ。本質は変わらない」と言っていたのが思い出されるよう。

これで最後のアポだが、セリーヌが乗ったリムジンは「HOLY MOTORS」に着く。(看板は「HOLY MOTRS」とOが消えていた)セリーヌがお面をかぶり岐路に着くと、リムジンたちが疲れきって「クライアント乗せてさー」とかサラリーマンのように疲れている。これは利権がらみの映画への皮肉やメタファーのように思われる。この会話で「行為を望まない」という発言があり、まるで近頃の3D映画への皮肉のように聞こる。本来、俳優の演技、カメラワークで魅せる映画ですが、そんなものは流行らないんだよって、『ポーラX』以来13年ぶりの映画へのフラストレーションがすべて出きった映画だったんではないでしょうか。

レオス・カラックスの映画へのひたむきな想い、愛情が感じられる素晴らしい映画でした。

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