『ザ・マスター』を観ました。※ネタバレあり

[あらすじ]
第2次世界大戦後のアメリカ。アルコール依存の元海軍兵士のフレディ(ホアキン・フェニックス)は、「ザ・コーズ」という宗教団体の教祖ドッド(フィリップ・シーモア・ホフマン)に出会う。やがてフレディはドッドを信頼し、ドッドもフレディに一目置くように。そんな中、ドッドの妻・ペギー(エイミー・アダムス)は暴力的なフレディを追放するよう夫に進言し……。(yahoo映画より)

[感想]
大国アメリカの40〜50年代の人々のトラウマを新興宗教サイエントロジーをモデルにしたと思われる「ザ・コーズ」を通して映像化したPTAの野心が詰まった傑作映画。

この映画は極論を言ってしまえば、”自分の気持ちは他人には全く理解出来ない”、または”予想出来ない”という様をストーリー・役者・演出・映像・音楽の映画要素を使って表現している。
彼のフィルモグラフィーを確認すると『パンチ・ドランクラブ』(’02)では、一目惚れという自分でも予想出来ない事象を、OPの事故やピアノが道のど真ん中に置かれるなどの演出によって表現していた。『マグノリア』(’99)のラストシーンのカエルが落ちてくるシーンもそうだし、『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』('07)のボーリング場では急なヴァイオレンスシーンが繰り広げられる。
これまでの作品群は、”予想出来ない=突然起こる”という演出であったが、今回の『ザ・マスター』は作品全体のテーマのように捉えられる。
僕には、新興宗教にはまる人・アルコール依存症になる人・セックス依存症になる人・精神病にかかる人の心境を恐らく理解出来ないだろうし、逆に自分自身の心境が他の人にわかるだなんて思ってもいない。
唯一、途中でマスターに執拗に絡むジョン・モアが観客(僕)の気持ちを代弁していて、まるで「こんな話おかしいよ、何考えてるのあなたたちは?」と言っているような意味にとれる。

本編は、どれも断片的な記憶の一部に感じるし、どのストーリーを組み合わせてもどこかで矛盾が生まれ支離滅裂なストーリーになってしまう。
(前作『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』からタッグを組んだジョニー・グリーンウッドのスコアもアヴァンギャルドだ。そのアヴァンギャルドさがストーリーの支離滅裂さを表現しているんだと思う。)
しかしながら、フレディの逃走シーンや船で上から寝ているフレディを捉えたショット、バイクでの逃走シーン、プロセシングの笑うシーン、監房で激しい口論をするシーン…思い出せば思い出すほど、心が躍動するショットや役者の演技に酔いしれ映画の力を思い知らされる。

一見、支離滅裂で難解な構成をしているように見えるが、映画すべての要素を使い映画とはこういうものだ!とシンプルに訴えかけられている気がする。
その強烈なPTAの意欲は観る人によってはただのエゴに感じてしまうだろうし、「え!ここで終わるの?」と混乱を与えてしまうかもしれない。
まさに”自分の気持ちは他人には理解出来ない”を映画すべての要素を使って表現し、映画を鑑賞するという行為そのもの自身を表現しているのかもしれない。
「俺はこう思うよ」「これは駄作だよ」「いや傑作だよ」と他の人がどのようにこの映画と向き合ったか、これほどに知りたくなった映画も初めてかもしれないし、僕はこういった混乱を生む映画を作ったPTAの野心をたいへん評価したいと思う。

次作の『インヒアレント・ヴァイス』はこういった映画では成立しないような気がするし、どんな表現方法を使うのかたいへん楽しみになる傑作映画だった。

評価点:88点