『Occultic;Nine -オカルティック・ナイン-』覚書――映画であろうとすることアニメであろうとすること

絶賛放送中の『オカルティック・ナイン』がものすごく面白い。普段、各エピソード単位で公開しない限りあまり終了前のアニメについて書くことはないのだけど、視聴者が“追い詰められた”感覚を覚える(少なくても僕は)作品を覚書レヴェルでも残しておくことは悪くないだろうと。

既に指摘されている方がいるように、探偵ものといった題材、夜の街<対する光(レンズフレア,PCスマホの光)のコントラスト>、フラッシュバック、奇抜なカット割り(ダッチアングル等……)、回想やヴォイスオーヴァーを扱っていることから形式としてフィルム・ノワールを引用している。また、主人公たちが追う事件が何やら裏社会とも密接に結びついているらしい描写も見られ、物語的に見ても光/闇のコントラストの高さをうかがえるあたり、フィルム・ノワールといっていいのかもしれない。

そして脚本も面白い要因のひとつだろう。まず、主人公・我聞悠太だけとっても1話の終わり、近年オカルトに力を入れていた橋上教授の死体を発見してしまう。そこから5話の冒頭に至るまで、主人公は死体を見てしまった(凶器を触ってしまった)強迫観念から逃れられなくなってしまう。そして5話でなんとか復活し事件へのめりこむ。しかし、今度はコトリバコの問題が発生し翻弄され、次はほら見たことかと自分が吉祥寺で発見された256人の死体の被害者であることが判明してしまう。視聴者を見事に右往左往させてしまう見事な脚本。そして、黒魔術のブラコンと悪魔(幽体離脱者?)のエピソード。森塚刑事と鬼崎あすなの関係性といい、風呂敷を広げまくっている。気づけば裏組織(八福神の会)の存在など、二転三転と展開していき視聴者を混乱させる。

鬼崎あすなの「上映開始(3・2・1)」と、まるで映画館で映画を見るように人の記憶を回想で見せていく方法を見ると、やはりフィルムノワールといった形式以上にもっと深いところから映画を意識しているように思えてくる。ただ、八福神の存在。裏組織が世界に何かをしようとしている……陰謀論など、アニメならではというべきかアニメ的であろうともする。そのアニメ的は、切れ味抜群のカッティング、ダッチアングル、カメラワーク(亞里亞と森塚の対面,回転するカメラ)、言語をまるでキーボードやタイプライターを打つように心地よい音(音楽)として扱う方法(特に鬼崎あすな,森塚駿)だったりと、リミテッドアニメ―ションがアニメであろうとする最善の方法を使っているんではなかろうか。

それと最初にゲットした金歯に隠された鍵の存在。鍵から手に入れる逆順もさることながら気づけば全く物語に絡まなくなっているのも後々の伏線なんだろうとしこりを残す。

アニメが映画であろうとし、でもアニメであろうとする作品だと思う。ちょっと考えがまとまっていないからテキトーに覚書残しておくけど、最後まで見て整理出来たらまた何か書こうかな。続きがとても気になる。