「悩まない」ことについて−『ミュータント・ニンジャ・タートルズ:影<シャドウズ>』覚書

リブート『ゴーストバスターズ』にも行かず、スコリモフスキの『イレブン・ミニッツ』に落胆し『ライト/オフ』も鳴かず飛ばずといった先週末を過ごしていたのですが、何気なしにTL(の極一部)でヒットしていたミュータント・ニンジャ・タートルズ:影<シャドウズ>を見に行ったのだが、これがメチャクチャ面白かった。前作『ミュータント・タートルズ』は未見でしたが特に関係なく楽しめた。

2Dで鑑賞したんですが、元々3Dを意識して作られているのか、3D演出的な画面中央にキャラクターを置いてどこまでも追いかけるカメラといった画面が多い。いうなれば顔映画(アップショット)方向で、広々とした世界観を見せる作品というよりも迫力・臨場感(勢い)を目指した作品だと考えられる。CGを駆使したきわめて現代的な映画であり、「製作:マイケルベイ」といったところから『トランスフォーマー』シリーズとの比較がされる。ただマイケルベイが監督する150分程度のカロリー過多なアメリカ的な巨大ハンバーガー映画ではなく、デイブ・グリーン監督は120分以内で抑える。未見だが前作の『EARTH TO ECHO アース・トゥ・エコー』も90分程度に抑えていることから、切るところは切ることが出来る監督なのかもしれない。

本作120分以下のため、それだけカロリー控えめか?と言われればそれは違うのだ。冒頭カメラがニューヨークの夜を上空から捉えカメラがあるビルへ迫っていく。そのままタートルズらを捉え、ビルからダイヴそしてビルの排水管のようなところをまるでゲーム感覚で滑り落ちMTVのバスケット鑑賞をする。とにかく冒頭からアクションが続き、その後もバスで爆走カーチェイス、『ホビット 竜に奪われた王国』から引き継がれたような川下りシーン、飛行機から飛行機のダイヴ、剣を使ったツイハーク的ワイヤーアクション、警察への侵入シーンの緊張感、サイとイノシシとの格闘、、、と、とにかく「見せ場」しかないといってもいい。次から次へと場面転換が続き、考えさせる暇もなくアクションが持続する。押井守的にいえばいわゆる「ダレ場」が一切ない。

ある秘密を知ってしまいタートルズが仲間割れする「ダレ場」のようなくだりはあるのだが、殆ど悩まない(止まらない)。まるで「悩んでますよっ」といった表情や行動を見せてみるが、すかさずアクションへ転じるので「ダレ場」をすっ飛ばしてしまうのだ。スタートからゴールまで一直線に駆け抜けるそういった類の映画なので、深層上の「リアル」を求める人には「心理がない」といわれそうだが、監督からそんなものには「興味ない」と返答されそうである。でも、だから面白いのだ。映画が(キャラが)常に流動し続けることに面白くないと感じるわけがない。このキャラが「悩まない」ことについては、作劇上の目的となる「ニューヨークを救う」といった軸をブレさせない真摯さも備わっているように思える。彼らの目的はニューヨークを救う/守ることだ。その目的に対しては一切悩まない。だから見ていて清々しいし、うまいことニューヨークを救わせてみればカタルシスも生まれるわけだ。

それとタイトルの『影<シャドウズ>』部分。彼らは常に影の存在であろうとし、「人間」に戻ること、「人間」のようにふるまえる未来が待っていようともそれを拒否する。だって「楽しいのかい、それって」といってのける遊びのある回答と、生まれてしまった自分の身体に対する潔さがかっこいい。また彼らはニューヨークを救った英雄として「何処にでも入れる鍵」を渡される。もちろん全てのドアが開く鍵なんてドラクエの「さいごのかぎ」じゃあるまいしそんなものあるわけないが、いままで忍びとして無断で侵入しなければならなかったことに対して、ニューヨークからの回答である。「我々はあなたたちを向かい入れますよ」という信頼の証であり、シンプルにアクションを流動させていけば映画が面白くなる、と実践してみせたデイブ・グリーンの勝利である。