父の成長…『そして父になる』※ネタバレあり

[あらすじ]
申し分のない学歴や仕事、良き家庭を、自分の力で勝ち取ってきた良多(福山雅治)。順風満帆な人生を歩んできたが、ある日、6年間大切に育ててきた息子が病院内で他人の子どもと取り違えられていたことが判明する。血縁か、これまで過ごしてきた時間かという葛藤の中で、それぞれの家族が苦悩し……。(yahoo映画より)

[感想]
結論から言ってしまうと『そして父になる』は、タイトルそのままに福山雅治演じる野々宮良多が「父」になる成長話である。冒頭、良多の息子”慶多”が小学生受験で面接をするシーンから始まる。ここで良多はいわばお受験用に取り繕った会話を続けるのであるが、そう言えば青山真治の『レイクサイドマーダーケース』もお受験が絡んでいたよなーと、最近はお受験が一般層にも注目されているし、”成長”というテーマを持った映画でお受験を使うのはなかなか上手いなと思わされた。

さて、『そして父になる』は直接的な原作は存在しないようであるが、60年代頃に各地で起こった「新生児取り違え事件」をベースがネタとなっているらしい。(映画を観ていて原作らしき引用元の文献か本を載せていたと思うのだが、タイトルを失念してしまった)現代「取り違え事件」なってあってはならぬことであるし、まず起きる可能性はないといっていい。それにこの映画のなかでも(ネタバレなので直接書きませんが)取り違えた理由に付いて触れられている。この取り違えた理由もこの映画を感じるなかで非常に大切な事柄だったなと僕は感じた。

「取り違え事件」を扱っているので、親と子の絆が深まるシーンなど魅力的なシーンはたくさん存在する。しかしながら、あくまでも良多が”「父」になる”映画であるので、父と子の話と思ってみると少し物足りない印象を持つかもしれない。

主人公である良多は、一流企業の中堅社員として社内からも信頼されているエリートサラリーマンだ。
ただ、エリートでもサラリーマンというところがこの話のミソと僕は思っていて、エリートではあるが良多はまるで主体性というものが存在していない。子育てにおいては、自分のエゴというものが少なからず存在しているが、重要な決定事項は人に流されてばかりだ。
慶多が自分の子どもでないと発覚し、そのことで悩んでいると上司から「二人ともお前が引き取れば良い」(台詞は曖昧です)と冗談のようなアドバイスをされる。道徳的に許されないようなアドバイスであるが、自分の血を分けた子”琉晴”がくらす斎木家が経済的に自分と比べ貧困層であると知ると、友人の弁護士に「両方ともうちの子にできないか?」と相談してしまうのである。(まるで子どもを物として扱う福山の口調は信じられないくらい感情がこもっていなく怖かった)

この人を物として扱う描写にはもちろん理由があり、後々わかってくるのだが、自分の両親に合っている時でさえもどこか他人と接しているようにエリートに振る舞っている。これは、良多だけに言えたことではなく、良多の兄?からも少なからず両親との距離感を感じた。これは実のところ、琉晴の育ての父”雄大”が父親との凧揚げエピソードをしたときに発覚することだが、良多は自分の父は凧揚げをしてくれるような父ではなかったと告白する。恐らく良多との関係と同じく、言葉やりとりはあったが、父親と一緒になって遊んだエピソードがなかったのだろう。

親父の教育が良多のベースとなってしまっているので、親父が「血なんだ!」と言えば、良多はまるで自分が思いついたかのようにやっぱり「やっぱり血だ」と冒頭みどりに「俺に任せろ」と言っていたはずなのに方針を一転させるのである。
ここから想像するに、良多、みどり、慶多の関係は、良多が幼かった頃の自分の家族関係に似ているんじゃないかと考えられる。良多の家族と一緒に暮らし始め”琉晴”が家出をする事件が発生するが、良多は「俺も昔家出したんだ…」と告白している。ここからに、今の家庭が当時の自分の家庭と全く同じだと感じていたんじゃないだろうか。そんな家庭だったからこそ一流/エリートに憧れ、自分は休む暇もなく仕事だけに没頭し、子どもとの時間も作らず当時の両親に負けないと意気込んで戦ってきたんではないだろうか。

少し話が脱線するが、この「血、血」と執拗に血縁関係が冒頭から扱われるとどこか『共喰い』を観ているような錯覚に陥った。先に『レイク〜』とも言ったように、安易かもしれないが日本の作家性を感じる映画監督は3.11以降、家族を題材とした映画を少なからず意識しているんじゃないかと感じる。

それと特徴的だったシーンで、BBQで良多と慶多が別れるシーンがあり、そのシーンで川の真ん中に大きな岩があって川の流れを分流させるシーンを印象的に撮っている。ここで良多は「おじさんはパパより慶多を愛している」と言うのだが、ここまでは本当に本心に聞こえるから怖いところで、川が二つに別れる=父と子も別れると読み取れる。この二つに分かれる川では、カメラは真ん中に岩を捉えているので、一度分流した川がもとに戻っていることがわかる。
この印象的なシーンは、ラストの良多と慶多の隣接する二つの歩道を挟んだ対峙のシーンで活かされていて、慶多が撮った写真や慶多が作ってくれた花を観て良多は慶多も自分の子どもだった、愛していたとハッキリと自覚する。そして、歩道のシーンで、良多が下の位置だったことからも目線が対等ないし、下から慶多を見るようになり、やっと初めて本当の意味での親と子のコミュニケーションが展開されるのだ。その対峙が終了すると、二つの歩道が一つの道と続いており、対峙から父と子が本当の意味で初めて対面する。川のシーンで真ん中に岩を置いた構図で撮った意味は、最後に本当の意味で父と子が対面をすると暗示していたんじゃないだろうか。

それまでの細かい演出などが、全てこの父と子の対峙シーンに集約されており、良多はやっと「父」ないし一人の「人」になれた瞬間でもあった。

あの着地なら普通「交換しなかった」というオチであるとは思うが、ハッキリとどうしたと言葉で説明しないで演出だけで締めくくった監督の手腕には脱帽もので、まさに傑作映画だったなと感じられた。

※僕は子どもはどころか結婚もしていないので、号泣するようなことにはならなかったですが、ニコールキッドマンは後半1時間号泣していたらしい。