『ザ・デクライン III』と『ぼくら、20世紀の子供たち』のフィクション性

先日、長らくソフト化されていなかったロサンゼルスの音楽シーンを捉えたドキュメンタリー映画『ザ・デクライン』(1981)と、『ザ・デクライン III』を見ることができた。『ザ・デクライン』はBLACK FLAGを代表とし1979-1980のバンドたちの活動をライヴやインタビューを記録した映画である。ほぼライヴ映像の記録となっており、パンクかじりたてのファンたちやマニアックなファンまで、広く楽しめる内容が収録されている。それに対し『ザ・デクライン III』は、『ザ・メタルイヤーズ』(1988)*1のあとに再びパンクに視線を向け撮影されたドキュメンタリーであるが、そこで描かれているのは『ザ・デクライン』とは全くの別物だ。

『ザ・デクライン III』では活動しているバンドにはほとんど目を向けておらず、かわりに『ガターパンクス』と呼ばれる路上生活をする若者を追ったドキュメンタリーになっている。『ザ・デクライン』で描かれたロサンゼルスのパンクシーンの”初期衝動”とは違い、タイトル通り(=デクライン)文化の退廃を感じさせるような内容が記録されている。彼らは(以下,彼ら=彼女ら)、小さい頃に親に虐待されてきた人たちばかりであり、虐待から逃げるために無一文で路上生活を選択した者たちだ。もちろん彼らにはお金はないし寝床もない。日々、空き家を転々として路上で持ち前のパンクファッションで観光客と写真を撮ったり、お金を強請ったりすることで生きている。そんな生活を送りながらも、ライヴ会場には足を運び(受付を突破するらしい)、毎日朝からビールを飲みながらパンクを聴いている。

本作の役割はそんな彼らの生活(現実)を記録すること。そして全世界にこういった現状を伝えることであろう。親から虐待され、その場から逃避することで路上生活を余儀なくされているが、彼らを見る社会の目は厳しい。彼らが物乞いしているシーンを客観的に撮影されるが、ほとんどの人からは無視されていることがわかるだろう。彼らは「外見で見られる」ことに対して嫌なようなことをインタビューで答えているが、それは仕方がないように思える。それは本来の動物としての外敵(危険)から身を守る本能だからだ。ただ本作はカメラと対象者の距離感がいい塩梅となっており、少しながらも彼らが可哀想に見えてこなくもない。また”ネオナチ”の存在がある。彼らはパンクス(マイノリティー)を毛嫌いしており、暴行を加え喧嘩沙汰が絶えないようだ。そういったパンクスに対する世評や、アンダーグラウンド界での情勢を見ることで感情移入してしまうのである。それこそがこの映画の狙いであり、ラストではこういった子供たちを支援していると映画で訴えているだ。

一方で見ていて感じたのが、この映画はロシアの映画監督ヴィターリー・カネフスキー『ぼくら、20世紀の子供たち』(1993)のパンクス版ではないか?といったことだ。ヴィタリー・カネフスキー『動くな、死ね、甦れ!』(1990)『ひとりで生きる』(1992)で、ベルリンの壁崩壊後のロシアにてひとりの少年を撮り続けた。『ぼくら、20世紀の子供たち』では本作のようにドキュメンタリーでベルリン崩壊後に街に溢れるストリートチルドレンの生活を追っている。子供たちにインタビューを行うが、ほとんどが街中であったり、刑務所の中であったりと安定した場所でのインタビューがされていない。しかしそれがストリートチルドレンの現実(場として)であり、そこに真実性が見えてくるのだ。彼らは子供なのに強盗や、人殺し…といった罪で服役しており、ソ連崩壊後のロシアの情勢が悲痛なほど伝わってくる。

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物語的な部分以外にもドキュメンタリー映画のフィクション性としてこの映画の終盤は似ていると感じる。『ザ・デクライン III』では、本作の撮影から数ヶ月後のシーンに移り火事になった家が映される。そこでは本作のインタビューを受けていたガター・パンクスのひとりが火事でなくなってしまったエピソードが語られる。約80分間こういったガター・パンクスの生活を見てきたわれわれは、映画の物語に適用する(=慣れる)ことで劇映画(フィクション)のように映画を楽しんでいた。しかし、カメラの前でインタビューを先ほどまで受けていたパンクスが火事で亡くなったと衝撃的な現実を突きつけられることになる。そこで『ぼくら、21世紀の子供たち』のラストについて触れていきたい。

『ぼくら、20世紀の子供たち』の刑務所のシーンで観客は驚くべき事実を知ることになる。カネフスキーの前作と前々作(『動くな、死ね、甦れ!』『ひとりで生きる』)に主人公役(ワレルカ)として出演しているバーヴェル・ナザーロフが刑務所に服役しているのだ。「盗んだ車は2桁?1桁?」と聞かれて「3桁かもな」と冗談混じり答える彼の姿を見ているとフィクションでは捉えられないような感覚がある。そして同じく2作品に出演していたディナーラ・ドルカーロワが面会にやってくる。ふたりは抱き合い再会を果たすことになるが、ここで『ザ・デクライン III』と同じような感覚に陥っていることがわかる。ドキュメンタリー映画という体制を取りながらも、観客の映画への”適用(慣れ)”によって劇映画(フィクション)のように映画を見ていること。そこで実際に俳優が刑務所に服役しているといった事実をつきつけることで「これはドキュメンタリーなんだ」といった感覚が再び戻ってくる。そこで突きつけられる現実に無力でしかない私たち。そのような残酷さがこの映画にはあるのだ。『ザ・デクライン III』と『ぼくら、20世紀の子供たち』を見ていると、映画のフィクションとドキュメンタリーというものの垣根というものは案外低いものなのではないかと思い知らされるだろう。

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*1:タイミングが合わず見れず