あの時のこと、あの子のこと、俺が見つけた大切なもの――『交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション1』感想

「すべては夢なのよ。すべての知的生命体は夢を見なければ進化することはできないの。夢を見るには何が必要かわかる?夢を見るには記憶が必要なの。私たちイマージュはそれを持ち合わせていない。この世界、すべての生命が持つ遺伝子情報、すべての生命が歩んできた歴史の記憶から夢は生まれる」――『交響詩篇エウレカセブン ポケットが虹でいっぱい

たとえば、『交響詩篇エウレカセブン』(以後、『エウレカ』と略す)テレビシリーズと『ポケットが虹でいっぱい』(以後、『ポケ虹』と略す)が同時に存在していたとしたら?また、もうひとつの違う物語が存在しているとしたら?『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』の典道やなずなのように何度も「if」を――可能性を見いだせるとしたら?『ポケ虹』のエウレカは私たち(イマージュ)は「夢そのもの」だという。アニメーションが人の夢(虚構)を映像化しているとしたら?そもそも『エウレカ』というアニメの持つ性質が、過去のアニメのオマージュを使用しアニメファンを喜ばせ、現実の音楽ネタを使用して音楽マニアを喜ばせるなど。虚構と身近な現実を限りなく接触させようとしていた。また、パラレルワールド設定の『ポケ虹』では、テレビシリーズと違う世界設定にしながらも、テレビシリーズと似たようなシーン(例えば病室でのレントンエウレカのやりとり)を使用し、元あった素材を活用し対比させてみた。

『ハイエボリューション』(以後『ハイエボ』と略す)と名付けられた新シリーズもまたテレビシリーズの素材と新規カットを駆使し、物語を語りなおすことで映画をドライブして見せる。『エウレカ』の始まりである「ファースト・サマー・オブ・ラブ」――ゼロから語ることで、それまで前提知識として存在していた出来事が表象される。テレビシリーズを切断し「PLAY BACK」「PLAY FORWARD」といった文字と共に、時系列を「何日前」「何時間前」といったように、巧みに切り替えていく。ここで重要なのはレントンが物語を語る(ナレーション)ことだ。

「あの時のこと、あの子のこと、俺が見つけた大切なもの」

リフレインされる「あの子のこと」もちろんエウレカを差すわけだが、まるで記憶喪失になったかのように、ゆっくりと思い出すように大切に「あの子のこと」と繰り返す。この記憶喪失者によるナレーションはまた鑑賞者を困惑させる。新規カット以外では主に26話『モーニング・グローリー』までの素材であり、それをレントンの記憶めぐり――ナレーションによって全く別の物語へ再構築してしまう。それはチャールズ夫妻の養子としてレントンが存在するという世界だ。彼がエウレカと出会い旅に出たときすでにチャールズ夫妻の養子であったと…。レントン・サーストンが“レントンビームス”であったその瞬間(あのパスポート)。信頼ならない記憶喪失のナレーターが語る個人的な記憶は、本当は「なかった」のかもしれないが、ここでは「あったもの」として語られる。*1

鑑賞者はその「記憶違い」に翻弄される。しかし、そもそも人の記憶ほど曖昧なものは存在しない。たとえそれが歴史的事実とはかけ離れてしまっていたものだとしても、本人がそれが本当だと信じて語るとき、それは話し手にとっては本当のことなのだ。それがテレビシリーズの素材を新たに使用すること――虚構を虚構として再利用すること。鑑賞者は同時に『ポケ虹』があったことを忘れてはならない。これらの虚構が脳に電気信号を送り走馬燈のようにイマージュが身体からあふれだす。そしてレントンは何もない荒野を駆けだす。新たな世界に向かって――「ねだるな、勝ち取れ、さすれば与えられん」。『グランド・ブダペスト・ホテル』(2013)でも、物語が口承などによってつながれていったが、今の人たちがそれが「本当」だということを証明することは不可能である。語られた素材で判断するほかないのだ。それが明らかな偽物だったとしても、プリ―ト・パルンの『1895』(1995)では、100年前の出来事を捏造して見せる。

アネモネが「夢を見るには記憶が必要なの」と語るように、人のイマージュは個人的な記憶に強く結びついている。それらを切断し新たに接続させることで、また新しい物語が創造されていく。『ハイエボ』は新たな世界を――誰かが願ったかもしれない可能性のひとつを創造して見せる。この記憶喪失者の語る物語は、それだけに個人的で、感情的であり、目の前が見えなくなるくらいの涙を誘うのだ。

個人的なハーモニー ノルシュテインと現代アニメーション論

個人的なハーモニー ノルシュテインと現代アニメーション論

*1:土井伸彰のいうところの「原形質性」として言い換えられないだろうか――『個人的なハーモニー』